『戦う大名行列』web版 目次
はじめに
【序章】軍隊行進だった大名行列
【第1章】領主別編成と兵科別編成
【第2章】中世初期の兵科別編成
【第3章】村上義清から生まれた戦列
【第4章】京都を訪ねた兵杖行列── 越後の隊列
【第5章】謙信の軍列── 車懸りの真相
【第6章】武田軍の隊形── 模範的軍隊の創出 ☜最新回
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武田軍の兵科別編成
  ・武田軍の軍政改革
  ・永禄10年から11年頃の武田軍
  ・信玄の軍事訓練
  ・「武田信玄旗本陣立書」の成立

武田軍の兵科別編成

武田信玄像

 兵科別編成がいつどこから普及したかという問題を念頭におきながら、甲斐武田氏における軍役の変遷を見てみよう。

 まず武田の兵科別編成がいつ始まったのかを確定する史料を求めねばならない。

 信玄の時代に兵科でまとめられた兵の記録として初めて登場するのは、「弓奉行」が管理する「弓之衆」である。この「弓奉行」と「弓之衆」は、「千野靫負尉勲功目安案」(『戦国遺文武田氏編』549号)13条目に見えるものである。

 ここには天文21年(1552)3月の信州地蔵峠で起こった時田合戦の記述として、「ひとつ。時田台合戦のときは、板垣[信方]の弓奉行に申し付けられ、存分に武功を立てました。細かいことは弓之衆にお尋ねください」と自らの武功を誇示する形で記録されている。時田合戦は、上杉謙信たちと武田軍の戦いとして知られている(『甲陽軍鑑』品第三〇「信州の時田合戦の事」、『甲陽日記』高白斎記天文21年条)。

 すでに天文17年(1548)の上田原合戦から4年が経過しているので、このとき武田軍に兵科別編成が導入されていてもおかしくはない。

 そこで武田軍は「飯富兵部・小山田備中、郡内の小山田左兵衛・真田一徳斎・蘆田下野・栗原左衛門佐」「旗本前備の甘利左衛門尉・馬場⺠部・内藤修理」が活躍したと記しているのだが、千野氏が属する板垣隊の活躍はどこにも書かれていない。千野氏は「涯分挊候」と誇らしげだが、具体的な戦功は「弓之衆」に聞いて欲しいと主張している。...