【謙信と信長 目次】
信玄上洛

(1)武田信玄と徳川家康の確執、それぞれの遺恨
(2)上杉謙信の判断、武田信玄の思考を紐解く
(3)甲陽軍鑑に見る、武田信玄の野望と遺言
上杉謙信の前歴
(4)謙信の父・長尾為景の台頭
(5)長尾家の家督は、晴景から景虎へ
(6)上杉謙信と川中島合戦、宗心の憂慮
(7)武田家との和解、二度目の上洛
(8)相越大戦の勃発、長尾景虎が上杉政虎になるまで
(9)根本史料から解く、川中島合戦と上杉政虎
(10)上洛作戦の破綻と将軍の死
(11)足利義昭の登場と臼井城敗戦 ☜最新回
   ・足利義輝の弟
   ・第一次上洛作戦の失敗
   ・足利義昭の誕生
   ・将軍逝去後の上杉輝虎の動向
   ・臼井城で敗れたのは関東連合軍

足利義輝の弟

一乗谷朝倉氏遺跡 唐門(写真:アフロ)

 上杉輝虎が人生を賭けて支えようとしていた将軍足利義輝が不慮の死を迎えた。

 越前の朝倉義景は輝虎に早く加賀の一向宗をともに挟撃して上洛の道を作り、仇討ちするよう求めたが、将軍弑殺の主犯である三好義継と単独で争うつもりはなかったらしく、積極的に動こうとする様子はなかった。

 ただしそれでも大和の興福寺にあって、事件の巻き添えを喰らいそうになった将軍の弟である覚慶の脱出には手を貸しており、覚慶は無事に伊賀を経由して近江へ逃れ、そこで三好方との抗争準備を整えた。上洛してつぎの将軍となるべく、敵方の目と鼻の先を拠点に、各地の大名たちに支援行動を要請したのである。

 上杉輝虎はもちろんのこと、安芸の毛利元就や能登の畠山義綱のほか、尾張の織田信長や三河の徳川家康にも出兵を求めており、ほとんどの大名が遠方にあって動けないでいる間、ひとり万難を廃して活然と実際行動に出ようとするものがあった。信長である。

 それまで信長は美濃の一色龍興と激しく争っていたが、ここで停戦して覚慶を救おうとしたのである。

 信長は、11月25日、義輝の側近だった細川藤孝に、越前の朝倉義景および若狭の武田義統と共闘して「将軍様からの上意次第でいつでも御供奉命令を最優先する覚悟」であると伝えた。

 信長と一色龍興の和睦交渉には藤孝自身が乗り出し、現地で折衝に努めた。和睦交渉は難航して、翌年の夏まで時間を要した。京都を中心に連続して急変する情勢に、そう簡単に乗れるなら、苦労はないのだ。

 避難先で還俗して足利義秋へとその名乗りを改めるとともに、京都方面に働きかけて、朝廷から次期将軍候補が就く慣習となっている従五位下左馬頭に叙任された。6歳からずっと僧侶の身でいた義輝の弟は30歳にして初めて武士の身となったのである。

 これに危機感を覚えたものか、三好方は阿波の三好康長が擁する足利義栄に目をつけた。11代将軍の孫であることから義秋への対抗馬へと押し上げたのである。

第一次上洛作戦の失敗

 果たして翌9年(1566)7月、義秋は、信長に尾張・美濃・三河・伊勢「四か国」の大軍を主催させて上洛する予定を立てさせた。決行の日取りは8月22日であった。

 ところが約束の日が来ても織田信長がやってこない。それどころか信長は和睦するはずだった美濃へ侵攻する。信長からの知らせによると、「(一色義興の盟友である近江の)六角承禎(じょうてい)の動きが怪しいので上洛作戦の予定を延期するとのことだった。実際に近江で義秋の後ろ盾となり、輝虎に上洛を要請していたはずの承禎には、裏切りの噂が立っていたのだ。このため、義秋も前後から襲われる前に、若狭の武田義統に庇護を求めた。

 こうして義秋念願の上洛は停滞する。

 しかも若狭は内乱で情勢が安定せず、単独で上洛作戦を決行することなど、不可能であった。そこで義秋は越前へと座を移した。

足利義昭の誕生

足利義昭坐像

 越前朝倉義景の居城・一乗谷で歓待を受けた義秋は、永禄10年(1567)4月21日に元服式を執りおこなった。その際に 「秋」の字は不吉ということで、名乗りを足利義昭に改めた。

 こうして上洛意欲を昂らせる義昭たちだったが、肝心の義景が一向に動かなかった。理由は詳らかにされていないが、半年後に信長が一色義興を打倒して美濃を併呑すると、細川藤孝、和田惟政などの義昭の近臣たちがすぐに動き始めた。実のところ義昭の近臣たちは、次もまた信長を頼るかどうかで揉めていた。前回、事情がどうあれ約束を果たせなかったのだから、失望する者が多かったのだろう。だがそれでもその熱意を信じるに足ると認める者がいて、義昭も信長に全てを賭ける決意を固めていたのである。

 そこで足利義昭は、信長への接触を積極的に働きかけ、ついに越前を抜けて、美濃まで動座することにした。

将軍逝去後の上杉輝虎の動向

 輝虎は、将軍・足利義輝が横死したことで、無理をして上洛をする理由が消散した。永禄8年8月5日、足利義昭は輝虎に今後のことを「万端任せ置く」ので、上洛を急いでもらいたいと督促したが、輝虎は自らの動きを封じる関東の諸問題を一挙に解決することを優先することにした。

 上方の情勢にも、次の将軍とすべき人物の動向にも無関心ではなかったが、義輝が存命中ですらできなかった上洛を改めて強行することは、簡単にはできなかったのである。

 永禄9年(1566)、関東に出た輝虎は関東東部、常陸と房総の安定化を目指し、現地の味方たちに大動員を呼びかけた。

 輝虎率いる関東の連合軍は、常陸小田城を降参させ、ついで北関東の不穏分子を沈黙させると、房総地方へと進軍した。北条軍とその与党勢力が房総の里見家への侵攻を強めていたからである。そこで輝虎は下総千葉一族の立て籠もる臼井城を攻めることにした

 城攻めを優位に進める上杉軍に属していた上野の長尾景長は「上杉軍は永禄4年(1561)の小田原合戦を超える大軍である(御人衆先年小田原陣ニも被勝)」と、関東大連合軍が途方もない大軍であったことを述べている(3月20日付長尾景長書状)。

 ところが輝虎の臼井城攻めは、失敗に終わってしまう。

 この時の敗戦は上杉軍屈指の大敗北とされているが、その情報源は二次史料の近世軍記である。これらは輝虎が臼井城の計略に嵌められて、散々な惨敗を喫したと記しているのだ。

 その内容を簡単に紹介すると、輝虎が北条方の臼井城を攻めて、これを落城寸前まで追い詰めたという。城主の原胤貞(たねさだ/千葉家臣)は防戦に努め、軍配者・白井浄三(じょうざん)の計略により城の地形が崩れて、越後の人馬を多数戦死させ、さらに北条から派遣された勇将・松田康郷(やすさと)の活躍により、輝虎たちを追い散らした。これにより追撃する北条方は「越後勢を悉く討取りけり」という大戦果を挙げたとされている(『関侍伝記』)。

 ただ、細かいところで事実と相違するところが多い上、白井浄三が敵兵の気を読んで未来を占ったり、城の地形を崩して、敵兵を打ち倒したりしたという描写は、古代中国の戦争小説風で、現実離れしている。それに輝虎は、臼井城の本丸以外を制圧しており、本丸だけ残されて反撃ができるとも思えない。

 さらに二次史料でも古いものを見ると、合戦の結末について「謙信(=輝虎)カ兵退去ス」(『鎌倉九代後記』)などと、輝虎が撤退したことだけを記していて、白井浄三なる軍師は登場していない。具体的な戦果も詳らかにされていない。すると、これらのドラマ的展開と越後軍撃退の内容は、あとから盛られたフィクションでありそうだ。

 たしかにこの敗戦で、輝虎が関東で著しく求心力を低下させていくことになる流れを無視することはできないが、戦争の天才で軍神と称えられた輝虎が1度敗退しただけで、ここまで求心力を落とすというのは、説得力に欠けているように思う。

 関東諸士は、輝虎個人の軍才と武運に依存していたわけではない。しかも輝虎は、この敗戦で重大な被害を受けておらず、自身も重臣も死傷することなく、無事に越後本国へ撤退できているのである。

 こうした状況を念頭において、当時の一次史料を見直すと、その様相は次のようであったと推定できる。

臼井城で敗れたのは関東連合軍

臼井城 本丸土橋

 さて、一次史料とそれに準ずる記録を見てみよう。輝虎たち本体の臼井城攻めは順調に進んでいた。これは、先の3月20日付長尾景長書状にある通りである。

 ところが、ここに援軍を差し向けた北条氏政は、戦闘途中の3月25日付書状で、さる23日に「敵数千人、手負・死人出来」の戦果を挙げたと述べ、北条方の公方である足利義氏も同日付書状で「五千余手負死人出来」という戦果を28日に述べている。そして、戦後の4月12日に氏政は「敵五千余手負死人仕出、翌日敗北」させたことを確定事実として述べている。

 こうして輝虎たちは撤退したのだ。...