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(2)平凡な名門貴族が右大臣に上り詰めた裏事情 ☜最新回
・藤原氏の「嫡子の嫡子の嫡子」
・父や弟の失脚にも咎められず
・桓武天皇との意外なつながり
藤原氏の「嫡子の嫡子の嫡子」
まずは『続日本紀』の次に編纂された『日本後紀(にほんこうき)』の、延暦(えんりゃく)十五年(796)七月乙巳条(16日)から見てみよう。亡くなったのは、藤原継縄(つぐただ)いう人物である。
これだけ読むと、いかにも平凡な名門貴族が出世して大臣の座に上りつめ、長寿を全うして他界したかのように考えられる。
しかしながら、なかなかそう単純な話ではない。継縄は藤原氏の嫡流である南家の出身である。不比等(ふひと)の嫡子であった武智麻呂(むちまろ)長子の豊成(とよなり)の第二子ではあるが、豊成の長子である武良自(むらじ)は丹後守(たんごのかみ)で終わっているから、早世した、あるいは出家したものと思われる(良因(りょういん)という名が伝わる)。つまりその時点で継縄は、藤原氏の嫡子の嫡子の嫡子ということで、輝かしい権力の座が約束されていたのである。
父や弟の失脚にも咎められず
しかし、豊成は右大臣に上って政権首班ではあったが、同母弟である仲麻呂(なかまろ)が光明(こうみょう)皇太后と組んで権力を握っていて、その権力は弱体化していた。しかも、天平宝字(てんぴょうほうじ)元年(757)の橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)の乱に連坐して、大宰員外帥(だざいのいんがいのそち)に左降されてしまった(ただし、病と称して難波(なにわ)に引き籠った)。
弟である権臣の仲麻呂暗殺を含む謀反の計画を知りながら、最高責任者として奏上を行なわず、奈良麻呂一味の尋問にも手心を加えていたという理由である。三男の乙縄(おとなわ)も日向員外掾(ひゅうがのいんがいのじょう)に降された(倉本一宏『奈良朝の政変劇』)。この時点でなぜ、継縄が何の咎めもなかったのかは不明である。
後に豊成は、天平宝字8年(764)に仲麻呂(恵美押勝(えみのおしかつ))の乱の最中に右大臣に復帰した。しかし豊成には、称徳(しょうとく)女帝(と道鏡(どうきょう))政権下で積極的に政事に関与する意欲もなく、2年後の天平神護二年(766)に死去している。
継縄は天平宝字7年(763)に叙爵され、仲麻呂の乱の後、信濃守や越前守に任じられた。天平神護2年に豊成が死去すると、継縄は7月に参議に任じられた。南家の嫡流としての議政官補充なのであろう。
その後、宝亀11年(780)二月に中納言に昇任したが、3月28日、陸奥(むつ)国で伊治呰麻呂(これはりのあざまろ)が勃発した。律令政府はすぐさま、征討軍を編制し、継縄を征東大使(せいとうたいし)、大伴益立(ましたて)・紀古佐美(こさみ)を副使(ふくし)に任じた。
華々しく編制された征討軍であったが、大使の継縄は結局、下向することはなかった。また、陸奥に進発した副使の益立も、5月8日に至ってようやく奏上をおこない、「且つは兵粮(ひょうろう)を準備し、且つは賊の様子を伺い、今月下旬を期して国府に進み入り、その後、機を見て乱れに乗じ、恭(つつし)んで天誅(てんちゅう)をおこなおうと思います」と言上してきた。光仁(こうにん)天皇がこれに怒ったのは、言うまでもない(倉本一宏『内戦の日本古代史』)。
桓武天皇との意外なつながり
「蝦夷」の征討には何の役にも立たなかった継縄であったが、桓武(かんむ)天皇の延暦2年(783)7月には、大納言に昇任した。
実は継縄の昇進には、裏の事情があったのである。継縄の妻百済王明信(くだらのこにきしみょうしん)は百済王氏の人で、百済王義慈王の末裔である。そのためもあろうか、同じく百済の武寧王の末裔を称する和(やまと)(高野(たかのの))新笠(にいが
そしてあろうことか、明信は桓武の寵愛(ちょうあい)を受けるという「内助の功」を発揮した。このことは、明信が(たぶん)継縄との間に産んだ乙叡の薨伝に記されている。継縄は延暦九年(790)に右大臣に任じられ、太政官首班の座に立つが、こういった背景があったのである(倉本一宏『藤原氏』)。
そして延暦15年、継縄は死去した。最初に掲げた薨伝は、その時のものである。
それに先立つ延暦13年(794)10月、新都への遷都が行なわれ、11月に平安京と名付けられた。遷都にともなう任官によって、藤原北家の内麻呂(うちまろ)が参議に任じられた。この内麻呂の妻である百済永継(くだらのながつぐ)も、女嬬(めのわらわ)として桓武の寵愛を受けていた。内麻呂と永継の間に生まれたのが冬嗣(ふゆつぐ)、摂関家の祖となる人物である。