写真:高須力

 発売して3か月、栗山英樹の大著『監督の財産』は評判を呼び続けている。848ページと圧倒的なボリュームで綴られた「監督としての集大成」。

 本書の特徴は監督1年目から現在に至るまでの、「当時のリアルな言葉」がすべて記されていることだ。例えば「育成論」について、監督1年目と2年目は違うけれど、1年目と8年目が同じ――といった思考の過程がはっきりと読み取れる稀有な一冊なのである。

 そんな一冊は「野球人」以外にも大きな示唆を与える。

 『監督の財産』にある「当時のリアルな言葉」を聞き続けてきた放送作家の伊藤滋之氏に、栗山の言葉・哲学から読み解く人生へのヒントを記してもらった。

LINEのメッセージに「。」は必要か?

 ある日、栗山英樹(北海道日本ハムファイターズCBO)と食事をしていて、「LINEの絵文字」の話になった。

 どうということはない。使い慣れるとクセになってつい多用しがちだが、安易な絵文字頼りは考えもの、そんな内容だ。

 絵文字そのものは豊かな感情表現を得意とするが、時と場合によって、あるいは文脈によって、いつもと同じ絵柄なのに受ける印象が違う、そんな経験はないだろうか。

 ゆえに、たとえば返信をそれだけで済ませようとすると、伝えたかった感謝の気持ちがストレートに伝わらなかったり、かえって心無い印象を与えてしまったり、思わぬ誤解を招くことがある。絵文字を多用した長文は禁物、という指摘も多い。

 絵文字は確かに便利だが、思うほど万能ではないのだ。

 そんな取るに足らない雑談から、ほどなくして話題は「句読点」へ。

 言うまでもなく句点は「。」、読点は「、」、文章の終わりや区切りに付ける記号のことだ。

 この句読点、はたしてLINE上でやり取りされるメッセージに必要か否か?

 承知しました。
 承知しました

 便宜上、「大人世代」と「若者世代」に分けてみよう。

 大人世代は、無意識のうちに句読点を多用し、「承知しました」には「。」を付ける傾向がある。一方の若者世代は、「承知しました」に「。」を付けない傾向があり、「、」の多い長文のメッセージにはストレスを感じる者が少なくないという。

 LINE上での句読点には会話を遮断されたかのような冷たい印象があり、若者同士のやり取りでは、「。」は怒っていることを意味する際にも使用されることがあるらしい。

 ゆえに先輩から、はたまた上司から届いた短いメッセージに「。」が付いていようものなら、そこに威圧感や恐怖心を覚えるというのだ。

 このように句読点がついた文章にストレスを感じる現象には、ご多分に漏れず「マルハラ」(マルハラスメント)という呼び名まで付いている。

 そもそもLINEがプライベートなコミュニケーションアプリとして定着したことが大きく影響していそうだが、背景はさておき、どうやら目上の者、あるいは年上の者が年下に送るメッセージに句読点を用いることには少しばかり慎重になったほうがよさそうだ。

 と、この話題にはさすがに一同閉口気味だったが、おかげでそこから栗山の根っこにあるもの、監督としてのスタンスを改めて聞くことができた。

なぜ、靴を揃えなければ大成しないのか?

 栗山は特に句点、「。」をつけることの重要さを、近著『監督の財産』でも伝えている。

 無論、LINEのメッセージのことを言っているのではない。ふだんから何事も最後までやり切ること、区切りをつけることを文章における「。」になぞらえ、それを習慣化させることがいかに重要か、訴えているのだ。

 栗山が大きな影響を受けた明治生まれの哲学者、教育学者である森信三は、著書の中で、子どもに9歳までに身につけさせてほしい「しつけの三原則」を説いている。   

「しつけの三原則」
1、朝の挨拶を自分からする
2、名前を呼ばれたら「はい」と返事する
3、席を立ったら椅子をしまい、靴を脱いだら揃える

 中でも、とりわけ栗山に響いたのが、「席を立ったら椅子をしまい、靴を脱いだら揃える」ことの大切さだ。

 椅子から立ち上がる。椅子をしまって区切りをつけたとき、はじめて「。」がつく。

 玄関で靴を脱ぐ。靴を揃えて区切りをつけたとき、はじめて「。」がつく。

 その教えに触れた栗山は、ファイターズの監督在任中、(すでに大人である)選手たちにも同じことを求めた。

 以下は、『監督の財産』からの引用だ。

練習メニューに30メートルのダッシュがあったとする。よく見るのが、30メートルちょっと手前で速度を落とす、というシーン。確かに抜きたくなるところだけど、本当にダッシュの効果を得たいのであれば、最後までやり切らなければならないのは自明だ。なのに最後の最後にふっと抜いてしまう。

手を抜かずに走れる選手と手を抜いてしまう選手の差は何かと言えば習慣だ。何事もふだんからやり切れるかどうか、そういうクセがついているかどうかで最後の一瞬の行動が変わる。だから、その習慣がない選手たちに、習慣をつけさせるには、「最後まで走り切らなければ気持ちが悪い」と感じてもらうようにすること、ふだんから何事もやり切るクセをつけさせる必要がある。
(『監督の財産』「第1章:監督のカタチ」より)

 そして、「。」がつかないプレーが習慣化してしまうと、最後の最後にミスが出る。それが10年間チームの指揮を執った栗山の実感だという。

 この話を聞いて、筆者は「二流」と「一流」、さらには「超一流」の違いを言語化することができる、そう考えた。

二流・一流そして大谷翔平のような超一流の違い

 まだ一流と呼ばれる域に達していない者は、日々ひたすら己の強みを磨くことに腐心し、格闘している。彼らのプレーは、本来、句読点が不要な位置にも「。」がついたり「、」がついたり、観る者にどこかギクシャクした印象を与える。

 その点、一流のプレーにはそういった不安定さがない。彼らは一つひとつの動作に「。」をつけずとも、ほぼ間違いのないプレーができる。だから、一流なのだ。

 ただ、その感覚を良しとして、ずっと句点のないプレーを続けていると、いつかどこかで必ずミスが起こる。

 なぜか?

 句点を意識していないということは、一つの動作を完了させる前に次の動作に移行しているということ。そこに落とし穴がある。

 一流だからこそ起こり得る、まさかのミスとも言えるだろうか。だが、それは決して「まさか」ではないということなのだ。

 はたして、「超」のつく一流はそこが違う。

 超一流の選手は、すべての動作に「。」をつけている。つまり句点を打って、次の動作に移る。

 にもかかわらず、まるで「。」など存在しないかのように、すべての動作がつながっているように見える。それが超一流の、超一流たる所以だ。

 別な表現をすると、「流れるようなプレー」と「流れるプレー」の違いと言えるかもしれない。

「流れるようなプレー」は、一つひとつの動作に「。」がついているのに、その区切りがないかのように映る美しいプレーの形容だ。流れる「ような」であって、決して流れているわけではない。これが超一流の技だ。

 一方の「流れるプレー」は、まったく似て非なる。一つひとつの動作に「。」がついておらず、プレーが流れてしまっている。一見美しく映えるが、実はいつミスが起こっても不思議ではない状態だ。

 侍ジャパンまで含めると約12年間の監督生活で、栗山はその違いを肌で感じていたのではないだろうか。

 中日ドラゴンズをリーグ優勝4回、2007年には日本一に導いた落合博満監督の、8年間の闘いを描いたノンフィクション『嫌われた監督』(鈴木忠平・著)の中に、印象的な記述がある。

いつだったか、休日のナゴヤドームで、私の隣にやってきた落合が放った言葉があった。

「ここから毎日バッターを見ててみな。同じ場所から、同じ人間を見るんだ。それを毎日続けてはじめて、昨日と今日、そのバッターがどう違うのか、わかるはずだ」

「アライバ」と呼ばれた鉄壁の二遊間の一人、井端弘和(現・侍ジャパン監督)の足の衰えを、指揮官が看破したときのエピソードだ。

 落合は、毎日同じ場所から、同じ人間を見ることで、昨日と今日の違いを敏感に感じ取っていた。

 だとすれば栗山は、毎日同じ場所から、同じ人間を見ることで、一つひとつの動作に句点がついているかどうか、「。」がついているかどうかを確認していたのかもしれない。

 また、興味深いことに「。」をつけることができる選手は、勝手に自分で練習ができるという。

 勝手に練習して、勝手に成長して、どんどんうまくなっていく。

 それを確信させてくれたのが他ならぬ大谷翔平だったというのだが、その興味深いエピソードは前述の『監督の財産』に譲りたい。

 
『監督の財産』
栗山英樹・著

DHとして史上初、自身3度目となるMVPを獲得した大谷翔平に対して、18歳からWBCまでどう接してきたかをはじめ、栗山いわく「自身の失敗談」から学んだことが詰め込まれた監督生活の集大成。初の監督となった2013年のオフから綴られた現在に至るまで「そのとき」に記したことがそのまま収録される。