根性は古臭いもの、時代に合わないもの、は共通認識になっている。
一方で、多くのトップアスリートや経営者たちはそうした「古臭い」ものに原点がある、と語る。
果たして根性とは何なのか。前編では、スポーツ根性の代名詞とも言える大松博文氏(1964年の東京五輪で女子バレーを金メダルに導いた名将)が、いま使われている「根性」とは違う意味で「根性」を用いていたことを、関東学院大学准教授の岡部祐介氏の言葉から紐解いた。
後編はその現代性にせまる。
高度経済成長が求めた「エセ根性」
——自主性、創造性、目的合理性。現代の根性論にないものばかりです。現代の根性論は、大松イズムから大事な哲学が抜け落ちた「エセ根性論」と言ってもいいかもしれません。なぜ「エセ根性論」が広まってしまったのでしょう?
岡部:選手が自分自身で考えて動くようにする普遍的な方法論は、簡単には見つからないはずなんですよ。人それぞれ違ってくるはずなんで。そのため大松イズムの簡単に真似しやすいハードトレーニングの部分だけが広まってしまった。
別の研究者も指摘しているんですが、おそらくビジネス界の問題も関係していると思います。
高度経済成長期のビジネス界には「ハイタレント」「中級技術者」「単純労働者」といった労働力を育てなければならない時代の要請があり、大松イズムの中の「とにかくやるんだ」という部分だけが取り出された。
「モーレツ社員」「24時間働けますか」というメンタリティーが生まれ、そのビジネス界の取り組みが、今度はスポーツの部活動などに跳ね返っていった。
その繰り返しの中で、当初考えられた理念と考え方が伝わらず、ミスリードされた。それが一番の要因だと思います。
——大松イズムの伝わりきってない部分にもう一度目を向けると、「エセ根性論」の問題がより明らかになりますね。
岡部:1960年代は日本全体で明確な目標が見えていた時代だと思うんです。多くの人が同じ夢を見られた。
ただし、それ以降、今まさにそうだと思うんですが、人々の考え方が多様化していった。もはや根性という1つの言葉で駆り立てるのは容易ではありません。
明治以前の時代に「通俗道徳」という勤勉・倹約の考え方がありました。
危機に直面したときにより着目される思想で、「復興・再建の倫理」とも言えます。たとえば農地が荒れてしまったときにどうやって立て直すか。代表例をあげれば二宮金次郎です。
根性論も「通俗道徳」に似ていたから、人々が受け入れやすかったという仮説を僕は立てています。1960年代、戦後のどん底から這い上がっていこう、成長していこうという社会的な雰囲気があった。まさに復興・再建の時代ですよね。
しかし、通俗道徳も根性論も、立て直したあとに、目標を達成したあとに、どうするかまでは教えない思想だと思うんです。
1964年東京五輪の際、大島鎌吉さんはとにかく選手の考えを変えなければならないと思って「根性」という言葉を採用したと思うんですが、実際に変わったあとのことまでは考えていなかったんではないでしょうか。
2020東京五輪で「最適化」にシフトを
——1964年東京五輪は根性論が広まるきっかけになりました。そこから50年以上も「変わったあとのこと」が続いているわけですが、それは今年開催予定の東京五輪で切り替わるのでしょうか。また、どんな新しい価値観が生まれると思いますか?
岡部:これまでのスポーツ界には、他者より優れる、自分自身の記録をさらに乗り越えるという「卓越性の追求」が中心にあったと思います。トップアスリートを除いて、そろそろこの考え方からシフトしなければならないのではないか。
根性論や通俗道徳の課題で見たように、卓越した先に何をするのか。さらなる卓越が追求されていくと思うんですが、そういう進歩主義はもう通用しなくなると感じています。
地球の自然環境が有限なものとして捉えられ、もはや無限に欲望や進歩を追求する時代は終わりました。
スポーツ界も有限性を踏まえたうえで、卓越性の追求から、自分が今できるパフォーマンスを最適化する方向へシフトすべきではないでしょうか。
——岡部先生は早稲田大学時代、箱根駅伝に3度出場しました。駅伝の経験が最適化の考え方につながっていますか?
岡部:駅伝で特に人気があるのが学生駅伝ですよね。学生スポーツは甲子園もそうですが、「不完全性」があるからこそ人を惹きつけると思っています。
不完全さがある中で、それでもベストを尽くしてパフォーマンスを出そうとするから、人々に訴えかけるものがあると思う。
もしかしたら今の「不完全性」の話は、「最適化」の考え方につながっているかもしれませんね。
僕自身答えを出せているわけではないんですが、時代の節目に差し掛かっているのは間違いないと思います。
コロナショックはそれを加速させるんじゃないかと。現在、限定された状況下で生きなければならず、元の生活には戻れない可能性がある。有限な状況の中で何ができるかを絶えず考えていく、「最適化」の時代になりつつあると思います。
歴史を知ると、新たな発見がある。
1964年東京五輪に生まれた「根性論」は、伝言ゲームを繰り返すごとに陳腐化し、オリジナルからかけはなれたニセモノになっていることがわかった。
「東洋の魔女」に金メダルをもたらした大松博文監督の哲学は、ただのハードワークではなく、クリエイティビティとの掛け算だったのである。
「創る喜びがあってこそ、はじめて選手も厳しい練習について来られるし、また、あきずにつづけられるのです」
根性論を振りかざす上司や指導者に出会ったら、こう伝えるといいだろう。
「それは大松イズムの劣化コピーではないですか? 本当の大松イズムはもっとクリエイティブだったことを知っていますか?」
では、どうすれば大松のようにハードワークとクリエイティビティを掛け合わせることができるのか? それは今後の連載の宿題としよう。
時代遅れの根性論には、新時代を生きるヒントが隠されている。