急速に進化する科学技術は、私たちの生活や社会、ビジネスの在り方に大きな変化をもたらしている。その一方で、最先端技術に関する倫理的・法的・社会的な課題――「ELSI(エルシー)」が浮かび上がっている。技術が生み出す新たな可能性と向き合い、どのような未来を築いていくべきか。その答えを見つけるために、今こそ立ち止まり、考える必要がある。

本連載では、話題の新技術やビジネス動向を通じてELSIの考え方をひも解き、社会とビジネスにおける実践的な視点を提供する。今月はリスク学や政策評価を専門とし、大阪大学 社会技術共創研究センター(通称 ELSIセンター)のセンター長を務める岸本充生氏が、「なぜ今ELSIが必要なのか」を解説する。(第1回/全4回)

 

岸本充生

大阪大学D3センター教授。社会技術共創研究センター(ELSIセンター)長を兼任。産業技術総合研究所安全科学研究部門、東京大学公共政策大学院を経て現職。専門はリスク学、政策評価、先端科学技術のELSI。ELSIセンターでは人文・社会系の産学連携を推進。共著に『基準値のからくり』(講談社, 2014)、共編著『リスク学事典』(丸善出版, 2019)など。地元では小学校のPTA会長を経て中学校のPTA会長、自治会長4年目。 >>プロフィール詳細

 

これまでどんな新しい技術に出会っただろうか?

生成AIの登場により、ますます新しい技術の社会実装のスピードが加速しているようにみえる。しかし、その速度には驚かされるものの、新しい技術の社会実装自体は新しいわけではない。

みなさんも物心ついて以来、様々な「新しい技術」の社会実装を経験したのではないだろうか。

駅員さんがカチカチと切符を切っていた鉄道の駅で、自動改札機が導入されたときのことを覚えている人もいるかもしれない。カセットテープによるウォークマンが一世を風靡し、カセットテープがCDに取って代わられ、インターネット時代が始まると、ストリーミングサービスが出てきた。もちろんインターネット自体がまさに新しい技術の社会実装であった。

最近でも、フリマアプリ、掃除ロボット、電動キックボード、このほかにも数えきれないほどの新しい技術が社会実装されている。新しい技術に初めて触れたときどんな気持ちだっただろうか。

(写真:gremlin / E+ / Getty Images)

そもそも人類は火の発明以来、次々と新しい技術を社会実装してきたのである。そういう意味では私たちは新しい技術の社会実装自体には慣れているはずである。

それでは、なぜ今、社会実装にELSIが必要とされているのだろうか。その理由を考えるためには、100年ちょっと前に、ガソリン自動車が日本社会に導入されたときのことを想像してみよう。

ガソリン自動車が量産されるきっかけは1908年に量産が始まったT型フォード車だと言われている。当時、このままクルマ社会化が進むと、交通事故死者が年間1万人を超え、排気ガスによる公害問題が深刻化することなど誰も予想しなかったと思われる。

しかし、1926年には自動車台数が4万台近くになり、交通事故死者は全国で2000人を超えていた。[註1] 1919年には自動車取締令が制定され、最高速度や運転免許などが定められ、翌1920年には道路取締令が制定され、左側通行が定められたが、なんと、飲酒運転が罰則付きで禁止されたのは1970年、一般道でのシートベルト義務化は1987年になってからであった。[註2]

魔神の贈り物を受け取るだろうか? 

法学者のグイド・カラブレイジ氏は著書『多元的社会の理想と法』(木鐸社、1989年)の冒頭に「魔神の贈り物」というエピソードを紹介している。[註3]

この国の大統領あるいは法制度の最終責任者であるあなたのところに魔神が現れて、生活を現在よりもいっそう快適で楽しみの多いものにする贈り物、つまり、神の恵みを与えると申し出るとしよう。その贈り物はあなたが望むどんなものでもよい。・・・魔神はこの贈り物をたった1つのものと引き換えに与えようと言う。・・・それは魔神が無差別に選び出す千人の若い男女の命であり、その男女は毎年悲惨な死に方をすることになる。——あなたならこの申し出に応じるか?

この申し出に応じたいと思う人は少ないと思うが、カラブレイジ氏は、この「贈り物」と「クルマ社会」の何が違うのだろうかと読者に問い掛けた。そう、すでに私たちは魔神の贈り物を受け取ってしまっているのである。

そして私たちは今、「自動運転車」というもう1つの贈り物を受け取ろうとしている。しかし、今回は100年前と比べて、私たちはとても慎重である。交通死亡事故の約9割が運転者のミスが原因であり、自動運転車が普及することでこれらの大幅な削減が期待できるにもかかわらず、である。

自動運転の実証実験では、1つでもトラブルがあれば原因が究明され、再発防止策がとられるまで実験が止められる。自動運転が普及する前にあらかじめ道路交通法が改正され、責任ルールについても議論されている。

安全に対する価値観が180度変わった?

こうした変化の背景には、20世紀の終わりころを境に、安全に対する価値観が180度変わったことが挙げられるのではないだろうか。

つまり、100年前には、分からないものはひとまず安全だと想定し、何か事故・事件が発生してから対策が講じられた。まさにガソリン自動車がそうであった。

20世紀半ばに日本全国に原子力発電所が立地されたり、20世紀の終わりにインターネットが登場したりした際には、まさにこの文化のもとで社会実装された。インターネットが登場した際、近年のデジタルプラットフォーム事業者による市場の独占、ソーシャルメディアでの誹謗中傷やフェイクニュースの氾濫などを予想できた人はいただろうか。

これに対して現在は、分からないものはひとまず危険であると想定され、安全であることが示されたものだけを社会が受け入れるようになっているのではないだろうか。自動運転車の社会実装の慎重さはこのように考えれば理解できる。

私たちは今、そのような時代に生きている。これはより安心な時代ではあるが、事業者にとっては困難な時代とも言える。単に良い技術を開発するだけでは不十分であり、その技術やそのユースケースが「安全である」ことを事前に社会に対して示す必要もあるのである。

[註1]武部健一「安全から見た道路史」国際交通安全学会誌 20(1): 16-26. 1994.

[註2]村上道夫、永井孝志、小野恭子、岸本充生『基準値のからくり:安全はこうして数字になった』講談社ブルーバックス, 2014.

[註3]グイド・カラブレイジ『多元的社会の理想と法 : 「法と経済」からみた不法行為法と基本的人権』松浦好, 松浦以津子(共訳), 木鐸社, 1989.

【次回 3月12日(水)18時 公開予定】

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