急速に進化する科学技術は、私たちの生活や社会、ビジネスの在り方に大きな変化をもたらしている。その一方で、最先端技術に関する倫理的・法的・社会的な課題――「ELSI(エルシー)」が浮かび上がっている。技術が生み出す新たな可能性と向き合い、どのような未来を築いていくべきか。その答えを見つけるために、今こそ立ち止まり、考える必要がある。

本連載では、話題の新技術やビジネス動向を通じてELSIの考え方をひも解き、社会とビジネスにおける実践的な視点を提供する。今月はリスク学や政策評価を専門とし、大阪大学 社会技術共創研究センター(通称 ELSIセンター)のセンター長を務める岸本充生氏が、「なぜ今ELSIが必要なのか」を解説する。(第2回/全4回)

 

岸本充生

大阪大学D3センター教授。社会技術共創研究センター(ELSIセンター)長を兼任。産業技術総合研究所安全科学研究部門、東京大学公共政策大学院を経て現職。専門はリスク学、政策評価、先端科学技術のELSI。ELSIセンターでは人文・社会系の産学連携を推進。共著に『基準値のからくり』(講談社, 2014)、共編著『リスク学事典』(丸善出版, 2019)など。地元では小学校のPTA会長を経て中学校のPTA会長、自治会長4年目。 >>プロフィール詳細

 

今月はリスク学や政策評価を専門とし、大阪大学 社会技術共創研究センター(通称 ELSIセンター)のセンター長を務める岸本充生氏が、「なぜ今E...続きを読む

プライバシー権という考え方の誕生

米国で1890年にウォーレンとブランダイスが論文「プライバシーの権利」を公表し、法律上の権利としてプライバシーが位置付けられた。ここでは、プライバシー権は「独りにしておいてもらう権利(the right to be let alone)」と定義された註1

この論文が書かれた背景としては当時、米国社会では技術革新と低価格化によりカメラが普及し始めていたことが挙げられる。

誰でもカメラを持てるようになり、有名人のプライベートな場面を勝手に撮影して雑誌や新聞に売る行為が目立ち始めた。ところが当時の法律でも、倫理規範でも、社会常識からも対処が難しかった。つまり、法的・倫理的・社会的な空白が生じたことになる。

提唱された「プライバシー権」は、そうした空白を埋めるために提案されたある種の「社会技術」ということができる。 

(写真:AndreyPopov / iStock / Getty Images Plus)

法と倫理と社会の関係

カメラのような新しい技術が社会に実装されると、法的・倫理的・社会的な空白が生じることがある。

近年ではコロナ禍で社会に広く導入されたリモートワークやオンライン会議/授業もそうである。「どういうときにカメラをオン/オフするのか」といった社会的課題、「被雇用者をどの程度監視することが許されるのか」といった倫理的課題、「リモートワーク中に出たごみは事業系廃棄物なのか/リモートワーク中の怪我には労災が適用されるのか」といった法的課題が発生したことは記憶に新しい。

同性婚、選択的夫婦別姓、死刑制度など賛否の分かれる問題も最終的には法律に書き込まれるが、その背景には何らかの倫理規範があり、さらにその背景には社会受容性がある。法(L)、倫理(E)、社会(S)の関係を図に表すと次のようになる(図)註2

図 法(L)、倫理(E)、社会(S)の関係

生成AIの登場・普及も、法的・倫理的・社会的な空白を生み出し、社会全体でも企業や学校という組織レベルでもルール作りが進められている。

ヒトゲノム計画とELSI

ELSI という言葉は、米国で1990年に開始された「ヒトゲノムプロジェクト(Human Genome Project: HGP)」の中の研究プロジェクト名である「倫理的・法的・社会的含意(Ethical, Legal and Social Implication)」として公式には誕生した。当初は ELSI の「I」は含意(Implications)の頭文字を表していた。

プロジェクトの作業グループは、ヒトゲノム計画のELSI研究の目的を、ヒトゲノムの解析と配列決定が個人と社会に与える影響を予期し対処するとともに倫理的・法的・社会的帰結を調査すること、さらにこれらの課題についての国民的な議論を喚起すること、個人と社会の便益のために情報が利用されることを保証する政策オプションを策定することとした。

要するに、ヒトゲノムが解読される前にあらかじめ、解読されたのちに生じるかもしれない課題を洗い出して、対処方法を検討しておこうというコンセプトである。カメラという新しい技術が社会に出てきたあとでプライバシー権の考え方が提案されたのと対照的である註3

まさに現在のELSIの考え方の原点であり、自動運転の社会実装においても、脳神経情報の利用においても適用されている考え方である。

ELSIからELSA、そしてRRIへ

ヒトゲノム計画で採用されたELSIのアプローチは、後に米国で国家プロジェクトとして推進されたナノテクノロジーや脳科学などにも適用された。欧州でも同様の研究はELSA(※「A」はAspects(側面)の略)と呼ばれ、さらに2010年代には、対象を研究公正も含む形で「責任ある研究・イノベーション(Responsible Research and Innovation:RRI)」概念に発展した。

RRI概念は、ELSAを引継ぎ、「ジェンダー」「科学教育」「エンゲージメント」「オープンアクセス」「倫理」の5つの評価指標に「ガバナンス」を加えた6つの鍵となる切り口が用意され、さらに「先⾒性(Anticipation)」「 省 察 性(Reflexivity)」「 包 摂 性(Inclusion)」「応答可能性(Responsiveness)」と い う4つのアプローチが挙げられている(表1)。

表1 RRIの4つのアプローチ (出典:榎本(2024)図3(榎本啄杜、RRI概念の発展⼩史 : ELSIとの繋がりから理解する. ELSI NOTE. 2024, 45, p. 1-15)https://doi.org/10.18910/97834

[註1]Warren, S. and  Brandeis, L. The Right to Privacy, Harvard Law Review, 4: 193-220 , 1890

[註2]岸本充生、朱 喜哲「ELSI対応なくして、データビジネスなし?!話題のELSIとは」電通報 2020/02/07 https://dentsu-ho.com/articles/7123

[註3]当初は、ヒトゲノムプロジェクト(HGP)研究予算の3%がELSI向けに割り当てられることになったが、連邦議会は、1993年に研究予算を付ける際に外部向けの研究予算の「少なくとも5%」がELSI研究支援に当てられることを義務付けたことも特徴である。

【次回 3月19日(水)18時 公開予定】

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