起業、独立、複業など「自分軸」に沿った働き方を選択することで、より理想にフィットした生き方を手に入れようとした女性たちの等身大のストーリーを追う「INDEPENDENT WOMEN!」。
第10回はベトナム・ハノイでカメラマンとして活躍しながら、誌面制作や絵本の翻訳・出版などを行うプロダクションを起業した勝恵美さん。CM制作会社勤務から単身ベトナムに移り、現地日系企業での経験を経て、起業したという経歴の持ち主。「自分が本当にやりたいこと」を求めて活動した先で辿り着いた起業という選択。ベトナムでの運命的な出会いにより導かれた起業までのプロセスに迫る前編。
文=相馬香織 写真=Mai Trung Thanh
「やりたいこと」のため、会社員からカメラマンへ
日本から約3500km離れた東南アジアの国、ベトナム。社会主義国家であるこの国は、長い戦争を経て、今はめざましい発展を遂げている。「またこうして取材が増えて嬉しい」と笑う勝さん。普段はカメラマンとして取材をすることも多く、ベトナム航空の機内誌の日本語版を手がけるほか、雑誌などでも活躍。ベトナムの魅力を多くの人に発信している。
「もともとベトナムには作品撮りのために来たんです。写真の専門学校を休学して半年間滞在する予定でしたが、もう20年になります(笑)」
半年のつもりが20年、さらに起業までするとは、当時夢にも思わなかったという。ベトナムで起業。それはあくまで、「自分のやりたいこと」を追求し続けたことによる結果だった。
キャリアのスタートは、大学卒業後、日本で入社したCM制作会社。企画として広告制作に携わっていたという。
「テレビCMの制作会社の仕事は、自分で何かを作り上げるというよりも、クライアントが求めるものをかたちにして利益に繋げていくことがメインでした。私は学生時代から一人旅が好きで、ガイドブックや雑誌に興味があった。自分がいいと思うものを表現できる仕事がしたいと思い、2年で退職して写真の専門学校に入り直しました」
直感で来たベトナムで得た雑誌の仕事
昼間は派遣社員として働きながら、夜に写真を学ぶ日々。基礎を学び、次のステップに進む時に、今の彼女へと繋がる最初の転機を迎える。
「自分はどんな写真で、どんなことを伝えたいのかを考えた時に、一番人間味が溢れて、自分らしい写真を撮ることができるのは『ベトナムだ!』と思いました。直感でしたね。コネもなかったので、とりあえず行ってみようと(笑)」
すぐにベトナムに渡り、語学を学びながら写真を撮り続けていたという。
「ベトナムで撮影するにしても、言葉がわからないとコミュニケーションが取れないので、ベトナム語を学びながら写真を撮っていました。撮影をしているうちに、もう少しベトナムにいたいと思うようになったんです。そのためにはお金を稼がなきゃと思っていたところ、旅行業や『ベトナムスケッチ』というフリーパーパーの発行を手がける日系企業でアルバイトとして働くようになったんです」
成長とともに「やりたいこと」を実現
最初は旅行部門に配属され、その後、フリーペーパーの編集部に異動。ここで、まさに思い描いていた仕事にたどり着く。
「ベトナムって南北に細長くて、最大都市ホーチミンとはかなり距離が離れているので、ハノイ編集部を立ち上げることになったんです。それで私が責任者を任されました。編集部員は私しかいないので、企画を出して、写真を撮って、記事を書いて、営業活動もして。雑誌を作るさまざまなノウハウを学んでいきました」
勝さんがキャリアを重ねるにつれ、雑誌も急成長。入社当時30ページ程度だったものが10年で230ページまで増えていく。さらには日本からベトナムでの撮影やコーディネートの仕事が舞い込み、いつの間にか、自分のやりたいことが叶っていった。
「CMの制作会社にいた頃は、なかなか企画が通らずに自信をなくすこともありましたが、自分で企画を作り、写真も撮って、それらが形になっていく。まさに自分がやりたかったことだったので、とてもやりがいを感じていました。
ベトナムの情報が蓄積され、経験が増えるにつれ、日本で携わりたいと思っていた『まっぷる』や『ことりっぷ』といったガイドブックや雑誌の取材、コーディネーションの仕事も依頼されるようになって。やりたいことは日本でなくてもできるんだと思いました」
入社当時のアルバイト代は月400ドル。その頃のベトナムは今よりも物価が安かったのでなんとか暮らせていたという。さらに、とある交流会で出会ったベトナム人女性の家にホームステイをして生活費を節約した。
その女性が、のちに「MORE Production Vietnam」の共同創設者となるヒエンさんだ。勝さんにとってかけがえのない存在となる彼女も、編集部でともに働いていた。
役割が変化し、再び抱えるジレンマ
組織が大きくなると、勝さんの役割は現場からマネジメントへと変化。「自分のやりたいこと」がやれていた環境から、再び遠ざかってしまう。
「『好きなことを仕事にしたい』と日本で会社を辞めてベトナムに来たのに、またモヤモヤした気持ちを抱くようになっていました。それが徐々にスタッフにも伝播し、会社の雰囲気も悪い方向へと傾いていってしまったんです。なので、一旦編集部を離れ、旅行部門に戻ることになりました」
「起業」のきっかけは社長からの提案
旅行部門へ出戻ってからもくすぶった気持ちを抱えていた勝さん。そんな時に、当時の社長が思いもよらぬ「起業」を提案してきたという。
「『やりたいことがあるんだったら、俺がお金を出すから自分で会社を立ち上げてみたらどうだ』と言われました。想像に過ぎませんが、社長は、私に別の編集部を作らせれば、そちらも事業としてうまくいくと思っていたのかもしれません(笑)」
当時の社長は、勝さんの写真展の資金援助をしてくれるような懐の深い人。突然提案された「起業」という言葉に戸惑いもあった。しかし、「やりたいことを認めてくれる人に、背中を押してもらったのだから」と起業を考え始める。
さらに、話を聞きつけたヒエンさんから、共同設立の話を持ちかけられた。これが、一人で起業することに不安を抱いていた勝さんをさらに後押しする。
「彼女に言われたのは、『上下関係ではなく対当な関係で仕事ができるなら、勝さんと一緒に会社を立ち上げて頑張りたい』ということでした。
日系起業の場合、日本人が上司でベトナム人が部下という上下関係が存在してしまうのですが、対当な立場で頑張りたいという思いを伝えてくれました。そんな彼女の言葉は力になったし、彼女と一緒であれば、また新たな夢を掴めるような気がしました」
仕事があることで順調に開業
勝さんと元の会社の社長、ヒエンさん、三者が資金を出し合うかたちでスタートした。大きな機材や設備がなくても、人が動けば始められる事業だったこともあり、400万円で開業したそう。
「とりあえずやってみよう!という感じでしたね。当時の私にはドキドキする金額ですが、フォローアップできない額ではなかったので」
開業当時のスタッフは5人程度。会社経営は未経験だったが、雑誌制作の仕事は今まで培ってきたノウハウがある。さらに、創業当初からスタッフを雇い、会社を運営できた理由は、以前担当していた仕事を引き継ぐことができたことも大きかったという。
「編集部に在籍していた頃から、自社刊行物の編集とは別に、ベトナム航空の機内誌『ヘリテイジ』の日本語版制作を行なっていました。私がベトナム航空に提案をして手がけたもので、ヒエンと一緒に担当していました。
制作のノウハウを知る私たちが抜けてしまうと、編集できる人がいなくなってしまって。元々社長も出資をしている会社なので、引き継ぎを快諾してくれて、私たちの会社で制作することになりました。起業をした段階で、こうした仕事があったというのは、とても大きな意味があったと思います」
自身の制作会社が順調な滑り出しを迎えた勝さん。その矢先で迎えることとなる転換期については後半にて。