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(8)天皇の後継争いに巻き込まれた、藤原仲成の最期 ☜最新回
・順調に出世した藤原北家の貴族
・死は「自ら招いたことである」
・真の首謀者は?
順調に出世した藤原北家の貴族
「平城太上天皇(へいぜいだじょうてんのう)の変(薬子(くすこ)の変)」関連で、首謀者として殺されてしまった藤原仲成(なかなり)について見てみよう。『日本後紀』巻二十の弘仁元年(810)九月戊申条(11日)には、次のように仲成の死と伝記が載っている。
仲成は、桓武の権臣として長岡京の造営に心を砕いていた種継が延暦4年(785)9月に暗殺されたため、11月に22歳で早くも従五位下に叙され、翌延暦5年(786)に衛門佐に任じられたのを皮切りに、出雲介・出羽守・出雲守・左中弁・越後守・山城守・治部大輔・主馬頭・大和守・兵部大輔・右兵衛督を歴任した。延暦20年(801)には従四位下に昇叙されるなど、順調に昇進したと言えよう。
次の平城天皇の時代に入ると、妹の尚侍薬子の女(名は不明)が平城の宮女となって出仕し、やがて薬子も平城の寵を受けたことによって、仲成も重用されることになった。大同2年(807)に起こった「伊予親王の変」の首謀者にもなったとされ、平城皇統を支える権臣の立場を嗣いだのである。大同3年(808)に右大弁、そして大同4年(809)に北陸道観察使(平城が参議を改称したもの)に大蔵卿を兼ね、弘仁元年(810)6月10日にはついに参議に上った。47歳の年のことであった。
しかし、行政改革を推進して貴族層の意識とは乖離していた平城太上天皇と対立した嵯峨(さが)天皇は、3月に蔵人所を設置し、勅令を(藤原薬子などの女官を介さず)直接に太政官組織に伝える態勢を整えた。蔵人頭に補されたのは、内麻呂の子である藤原冬嗣(ふゆつぐ)であった。ここに平城を包摂した式家と、嵯峨を取り込もうとした北家との、藤原氏内部の権力闘争の様相も現われてきた。北家の内麻呂は、嫡子の真夏(まなつ)を平城の側近に配し、次男の冬嗣を嵯峨に接近させたのである。
死は「自ら招いたことである」
7月19日、病悩の続く嵯峨は内裏を出て東宮に遷御し、平城に神璽を返して退位しようとした。これを真に受けた平城は、9月6日、平城は平城旧京への遷都を号令した。これに対し嵯峨は、9月10日、遷都によって人々が動揺するというので伊勢・美濃・越前の三関を固め、宮中を戒厳下に置いた。そして仲成を拘禁し、薬子と仲成の罪状を詔として読み上げ、薬子を官位剥奪・宮中追放に処し、仲成を佐渡権守に左遷したのである。
嵯峨の動きを知った平城は激怒し、諸司・諸国に軍事防衛体制を取るよう命じるとともに、畿内と紀伊の兵を徴発して、11日の早朝に東国に赴こうとした。
一方、嵯峨(と内麻呂)は坂上田村麻呂を美濃道に派遣するとともに水陸交通の要衝に頓兵を配備し、拘禁していた仲成を射殺した。これが仲成の最期ということになる。
翌12日、平城の一行は、直線距離で5キロほど進んだ大和国添上郡越田村(現奈良市北之庄町)で行く手を遮られた。平城は平城宮に引き返して剃髪、薬子は服毒自殺した。平城への忠誠を貫いた内麻呂嫡男の真夏は備中権守に左遷され、政治生命を終えた。
というのが「薬子の変」の顛末である。もちろん、以上はすべて、クーデターに成功した嵯峨側の残した記録に基づく「正史」の叙述である(倉本一宏『平安朝 皇位継承の闇』)。平城によって皇太子に立てられていた高丘親王は廃太子された。もちろん、将来に実子の正良親王(後の仁明天皇)の立太子を狙ったものである(倉本一宏『皇子たちの悲劇 皇位継承の日本古代史』)。
真の首謀者は?
仲成の死は、天皇家内部における平城と嵯峨との皇統継承争い、藤原氏内部における式家と北家との権力闘争の犠牲となったと位置付けられるが、「正史」に記された仲成の薨伝は、その幼少時からの凶暴さと、長じてからの無道な振る舞いを記録している。もちろん、その史実性は定かではない。
それによると、仲成は生まれつき凶暴で心がねじれ、大人になっても酒の勢いで行動するところがあり、親族の序列に従わず、諫止する人を無視したという。このあたり、大伯父の広嗣が天平12年(740)に九州で乱を起こした際に聖武天皇が広嗣を非難した勅と似た文章である。
そして妹の薬子が平城の寵を受け、朝廷で勝手な行動をするようになると、その威を借りてますますわがままな振る舞いをして、多くの王族や老齢の高徳者が辱められたという。後の変の首謀者を、平城本人から仲成と薬子に転嫁しようとした文脈なのであろう。なお、春名宏昭氏によれば、本当にクーデターを起こしたのは、むしろ嵯峨の方であったという(春名宏昭『平城天皇』)。
もう1つ、とんでもないエピソードを載せている。笠江人の娘が仲成の妻となったのだが、仲成は妻の叔母に関心を寄せたものの、馴染んでくれないので、力づくで自分の意を通そうとした。その叔母が佐味親王の邸に逃げ込むと、仲成はそこに上がり込み、叔母を見付けて荒々しい言葉を吐き、道理に背き、人の道に外れた行動に出たという。
そして、射殺されたことについて、人々は、「自ら招いたことである」と言ったと結んでいる。
もちろん、「正史」というのは「史実として正しい歴史」という意味ではなく、「編纂時の天皇および政府にとっての公的な歴史」という意味である。平城皇統を廃し、自己の皇統を確立した嵯峨、そして式家を葬って権力の座に坐った北家の立場からは、とんでもない天皇ととんでもない権臣だったので打倒したのだという主張なのであろう。
なお、一般的には、この仲成の射殺から保元元年(1156)の保元の乱にいたるまで、平安時代には公的な死刑は行なわれなかったと解説されることが多い。しかし、この仲成の射殺が、公的な手続きを踏んだ死刑かどうかは、いささか疑問である(保元の乱の戦後処理についても、あれが公的な死刑かどうかは、問題があると思うのだが)。律の規定では、死刑は斬と絞の二種類しかなく、射殺というのは想定していない。嵯峨の別勅による制裁と考えるべきであろう。
なお、もう一つ、『日本後紀』は興味深い予兆記事を載せている。大同3年(808)4月に2羽の烏が若犬養門の樹の枝上で翼を寄せ合い、頭部を交互にした状態で一緒に死んだ。烏は1日中落ちてこなかったため、遂にある者が打ち落とした。これを見聞きして、人々は藤原仲成・薬子兄妹が罪人となる予兆だと噂したという。何とも念の入った仲成・薬子への断罪である。