街を歩いていると、不意に耳に入ってくる言葉がある。誰かの会話、カフェのBGM、看板の文字。芸人・鈴木ジェロニモが、日常の中で出会った“ちょっと気になる言葉”に耳をすませて、思考を巡らせます。


健康診断に行った。正しくは区民健康診査と言うらしい。今年、同じ区内で引っ越しをした。去年行った病院からは遠くなったため、新居近くの病院で初診という形で健診を受ける。
タッチして自動ドアを開けると中には四角いが安心するソファがいくつか並んでいて、その奥に受付がある。区民健康診査で予約していた、鈴木です。はーい、と了承してもらい、紙をもらう。ちょうど体の流れ的に左側のソファ席の端に落ち着き、そこに座って記入する。書けたので渡す。「では検尿をあちらのお手洗いで。入って右側に小窓があるのでそこに提出してください」。はい。言われた通りに済ませ、元の位置に座る。ここから色々があるだろうと、どっぷりよりはいつでも立ち上がれる体重の位置にして、次の指示を待つ。
「鈴木さーん」。はい。呼ばれた、と思うが同時に、あれ、と思う。今の〈鈴木さーん〉は、誰が言ったんだろう。受付周辺には看護師さんが3人いる。しかし全員マスクをしていて、誰の口元が動いたかは判別できない。さっきの音を思い出す。鈴木さーん。おそらく女性の、もっと高く言うことも可能だが別に、あえてそうしない、それによって受け手の平常な心持ちを保つ声。鈴木さーん。空間に反響して、もう一度天井から降ってきたような。記憶に感覚を沿わせるが、やればやるほど、自分の中から響いた気さえしてくる。もう一度受付を探す。しかし3人とも、もはや呼んでいないみたいな表情だ。患者をポジティブにもネガティブにも刺激しないことに長けた熟練の発声により、言ってない、みたいに言うことができるということだろうか。
しかしとにかく、この病院に入ってから私と信頼のおけるやりとりをしてくれたのは受付の人たちだから、まあ3人の誰かだろうと決め込んで受付へ数歩進む。あのー、はい、鈴木です。さっき呼んでいましたよね、という表情で発してみるが3人とも、あれ、といった様子で互いに目をぱちくり見合わせている。1秒くらい経って、1人が言う。「あ、あちらの診察室です」。
手で示された方向をぐるっと見ると、確かに診察室の大きいスライド扉が少し開いていて、中からまた別の看護師さんがこちらを見ている。「鈴木さんっ」。今度は短くしっかりその人が言う。ああ、と私は驚いたようなリアクションを小さく披露して、受付の方々に斜めの会釈をしつつ診察室へ向かう。
どうして分からなかったんだろう。理由の一つは、そっちに世界があることを私が想定していなかったから。その診察室は私の座った位置からちょうど背中の方向で、私は受付から左奥のお手洗いにかけては空間を把握して、ここに扉があって、と世界の存在と変化を想像していた。しかし真後ろの扉のことは、扉とも思っていなかった。
もう一つの理由。その看護師さんが私を〈鈴木さん〉だと思っていなかったから。診察室内の看護師さんは、呼びかける時点では誰が〈鈴木さん〉か分かっていない。呼んで、こちらに向かってきた人を〈鈴木さん〉だと認識する。だから待合スペース全体に向けて〈鈴木さん〉を発するしかない。
視界の真裏であっても、私の背中めがけて発された〈鈴木さん〉であれば、私は声の発生源にさすがに気づくだろう。しかし空間全体に投げられた〈鈴木さん〉は、難しい。過去を信じて受付を頼るしかない。そしてそれが起きた。
誰か分からず呼びかけられた〈鈴木さん〉は、あのとき一瞬宙に浮いた。それを私が引き受けて診察を受けた。そうか、私は初めから〈鈴木さん〉なのではなく、生まれた後に〈鈴木さん〉をやり始めたのだ。〈鈴木さん〉を借りて私の健康を確認し、私の健康を〈鈴木さん〉に貸し出している。私が〈鈴木さん〉の面倒を見ている。社会の外というのは私の中のことで、私は私がいつでも帰って来られる庭であろうと踏ん張っている。社会のことは、鈴木さん。だから私の〈鈴木さん〉にはこれからもどうか健康でいてほしい。
▼以下、写真2枚+キャプション▼
【鈴木ジェロニモの「耳の音」は今回で最終回です。ご愛読いただき誠にありがとうございました。】
プロダクション人力舎所属。R-1グランプリ2023、ABCお笑いグランプリ2024で準決勝進出。第4回・第5回笹井宏之賞、第65回短歌研究新人賞で最終選考。第1回粘菌歌会賞を受賞。YouTubeに投稿した「説明」の動画が注目され、2024年に初著書『水道水の味を説明する』(ナナロク社)を刊行。文芸誌でエッセイ掲載、ラジオ番組ナビゲーター、舞台出演など、多岐にわたり活躍。>>詳細
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