大きなうねりの中にある日本バスケットボール界。
B.LEAGUEが設立5年目を迎え、徐々に市民権を得てきた矢先の感染症拡大。チケット収益は激減し、クラブに大打撃を与えている。
SNS運用など活路を見出すチームが現れる中、特に突き抜けた結果を残すのがレバンガ北海道だ。コロナ禍にあって過去最多のスポンサーも獲得し、観客動員はつねにリーグトップクラス。
その背景には、いくつもの逆境を乗り越えてきた社長・折茂武彦がいる。選手として29年、昨年(2020年)5月に引退するまで10000得点という前人未踏の記録を打ち立てた男であり、2億円を超える借金をしてまで北海道の地にバスケットボールクラブを残した男でもある。
そんな折茂が記した話題の書『99%が後悔でも。』より、選手兼社長としての苦悩を綴った哲学を全4回で紹介する、第2回。(JBpress)
第1回「バスケ界のカズ」「伝説のシューター」は「人生の99%が後悔」はこちら(https://www.synchronous.jp/articles/-/103)
時代に翻弄されて「弱小」へ
インカレ優勝、MVPという看板を引っ提げて、わたしが次の進路に選んだのは、「トヨタ自動車」だった。
この選択は、当時のバスケットボール界を知る人ならば驚くかもしれない。誰よりも「勝ち」にこだわったわたしが、弱小チーム「トヨタ自動車」に入ったのだ。
面白い話がある。
母親が切り出した。
「トヨタにバスケ部なんてあるの? そんな訳のわからないところに本当に行くの?」
その言葉には、戸惑いと若干の怒気が含まれていた。
日本一の大学のキャプテンでエースだったこともあり、わたしの元には、多くの実業団チームからのオファーが届いた。住友金属といった当時の強豪チームからの誘いもあった。
そんな中で選んだトヨタ自動車。
5シーズン前までは2部リーグに所属していて、1部昇格後は毎年、リーグ戦で最下位争いを繰り広げている、いわば〝お荷物チーム〟だった。
バスケットボールに詳しいわけではない母親は、そのチームの存在すら知らなかった。そして「武彦は、自分が知っているような有名なチームに進む」ものだと思っていたらしい。
わたしに言った「そんな訳のわからないところに本当に行くの?」という問いは、そのトヨタ自動車バスケットボール部の監督が挨拶に、わざわざ実家まで出向いてくれ、監督を見送った後にわたしに掛けた言葉である。
ちなみにわたしが家族に何かを報告するときは、すでに物事が決まっていることが多い。このときもそうだった。母親からしたら、いきなり実業団チームの監督が来て、「よろしく」という話になったことになる。面食らうのも無理はなかった。
トヨタ自動車を選んだのには、いくつかの理由があった。
大きかったのは、〝そういう時代〟だったこと。
当時のバスケットボール界には、いわゆる〝学閥〟があり、学生たちの進路の主導権も〝大人たち〟が握っていた。出身大学によって、行けるチームとそうでないチームがあったのだ。
大学時代、わたしのもとに舞い込んだ「来ないか?」という複数の実業団からのオファーも、そのほとんどが「そもそも行けない」ところばかりだった。
本心を言えば、第一希望はケン(佐古賢一)とのプレーだった。これは、この後もずっと変わらないほど強い思いだった──彼ほどプレーをしていてわくわくした選手はいない。その理由は、後述したいと思う──が、わたしの希望はまったく聞き入れてもらえなかった。
ほかの大学の有望な選手たちに聞いても、状況は同じようなものだった。ある選手は、「そのチームに行くならいますぐ大学を辞めろ」とまで言われた。それを聞いて驚きもしない。それが当時のバスケットボール界だったのである。
ほかにも、「うちに」と誘ってくれる魅力的なチームがあったが、日本大学出身者はいなかった。学生日本代表で「日本大学」というだけで冷遇された経験があり、そのことがフラッシュバックした。実力だけではどうにもならないことがある。
結局、そうしたしがらみのなかったトヨタ自動車を選んだわけだ。
「弱かった」ことも決断を後押しした。
早くから試合に出られるかもしれない、そう思ったのだ。
例えば、あの頃のわたしにとって「日本代表になる」ことは大きな目標だった。代表候補には選ばれていたが、最終的な12人のメンバーに残ることはできないままだった。
日本代表を目指すには、まずは試合に出られなければ話にならない。強いチームには力のある先輩たちがたくさんいる。そこに進めば当然、ベンチを温める可能性が高くなる。
トヨタ自動車なら──。
「日本代表に入る。トヨタを俺の力で強くする」
母に告げたときにはすでにそういうメンタリティになっていた。
乗り出した「トヨタ改革」、まずは人
ただし、入社してはみたものの、そう簡単にはいかなかった。
バスケットボール部の成績は停滞したままで、リーグ戦では大きく負け越し、大差で敗れることも多かった。
勝とうが負けようが関係ない。
そんな選手が多かった。それが嫌でたまらなかった。
アウェーの遠征は特に嫌いだった。
選手たちは「出張」のノリ。現地に着けば、同じ部署の女の子から頼まれた名物のお菓子を探しに行き、帰りの新幹線の中では、どんなに情けない負け方をしようとも〝宴会〟が始まった。
言ってしまえば、企業の部活動のようなものである。いくら負けても、給料が下がることもない。選手たちが〝たるむ〟のも、致し方ない部分もあった。
「勝者のメンタリティ」がないわけだ。
わたしだけがイライラしていた。
アスリートはよく、「楽しむ」という表現を使う。「自分らしく楽しみたい」「大舞台を楽しみたい」……。だが、わたしは生涯を通じて、バスケットボールを楽しんだことはないに等しい。「楽しみたい」と思ったこともない。
常に「戦い」だった。
〝2強〟の一角として常に勝ち続けてきた日大の学生時代のコーチや先輩たちの教えもそうだった。
「相手チームと何をヘラヘラ話してるんだ!」
「常に戦闘モードで行け!」
相手を倒さなければ、勝たなければ上には行けない──。当時、わたしたちにとって戦うことは当たり前のことだったのだ。
だから、この頃のトヨタ自動車バスケットボール部の空気に馴染めなかった。
決して不遇だったわけではない。狙いどおり、1年目から全試合に出場し、平均得点は19.3得点。そのおかげか日本代表候補にも選ばれた。だが、そんなことで気持ちはとても収まらなかった。
2年ほどそんな状態が続き、わたしはある決断をする。
「退社」である。
不満だったのはバスケットボール部だけではない。
選手としての環境も嫌だった。
わたしはバスケットボール選手ではあるけど「プロ」バスケットボール選手ではない。トヨタからしてみれば、社員なのだ。配属されたのは総務部。バスケットボール部の監督が室長を務めていたこともあり、スポーツ活動には理解がある部署だった。
だが、仕事をしながらバスケットボールをすることへの違和感はぬぐえないままだった。
日々の業務は、備品に関するものが多かった。「電球が切れた」と連絡を受ければ替えに行き、「椅子を替えてくれ」と言われれば倉庫に取りに行った。当時のトヨタ自動車では、課長級から部長級に昇進すると、椅子に肘掛けが付いた。誰かの役職が上がるたびに、その椅子に肘掛けを付けに行くのも仕事だった。
縁の下の力持ち。これも立派な仕事だと頭では理解していた。でも一方で、「これを一生、続ける人生でいいのか?」「俺はバスケットボール選手として必要とされてここに来たんじゃないのか?」という疑問が、日に日に大きくなっていった。
<次回、いかにしてトヨタ自動車に「勝者のメンタリティ」を根付かせ、日本一に導いたか。「ここで変えるしかない」>