社長を兼任しながら49歳まで現役選手を続行した、レバンガ北海道の折茂武彦。本企画では、初の著書『99%が後悔でも。』を起点に、北海道のバスケットボール文化向上に身を捧げる折茂の半生やマインドを全5回で掲載する。
第4回は、所属チームの消滅、そして、前代未聞の「選手兼社長」として経験した苦労を語ってもらった。
(青木 美帆:スポーツライター)
不眠、過呼吸、それでもバスケが楽しかった
──2011年1月、レラカムイ北海道は虚偽の決算報告により、当時所属していたJBLから除名処分を受けます。選手として、このような事態になる予感はすでにありましたか?
かなりありましたね。その時にはすでに給料未払いが発生していましたし(※1)、正月に開催される天皇杯も「お金がないから参加できない」と言われたので、かなり厳しいんだろうなと。ただ、言葉が悪いかもしれませんが、そのような事態になっていたにも関わらず、なんとなく他人事のような感覚だったかもしれません。
──それはなぜだったのでしょうか?
企業チームにいたころは給料が未払いになったことなんて一度もなかったですし、「チームがなくなる」ということを本当の意味で理解できていなかったのだと思います。ですから、天皇杯を終えたあと、チームが消滅するということを知らされたときも、ショックですらなかったというか、「ああ、そうなんだ」というくらいの感覚。他の選手たちも、なんだかぽかーんとした表情をしていて、ことの重大さが理解できていないような印象でした。
──チームがなくなるという大きな出来事から、経営者としてどのようなことを学ばれましたか?
そうですね……選手がどのような状況をストレスを感じるかを、身を持って理解できたことは大きかったと思います。なので、私が経営者に就任した時は、まず「とにかく給料未払いだけはあってならない」と心に銘じました。また、練習や移動などの環境面の整備も、少しずつでもいいから常に前進させようと。自分が元選手ということもあり、当初は経営面より選手たちのケアに力を注いでいたかもしれません。
──競技のトップカテゴリーに所属しながら、選手とクラブ社長を兼任する──(※2)。この前例のないチャレンジに挑まれる際、ロールモデルにされた方はいらっしゃいましたか?
いえ、いませんでした。経営を担うということを軽く捉えていたといいますか、「何とかなるんじゃないくらいか」くらいの気持ちだったんでしょうね。まあ、実際やり始めたら、まったく何ともならなかったんですけど(笑)。すぐに壁に当たって、「俺は本当に何にもわかってなかったんだな」と思い知らされました。なんせ、社長業どころか、誰かに頭を下げることや名刺を渡すことすら初めてだったわけですから。
プレータイムが減ったり、給料が未払いになったり、チームがなくなったり、キャリアの中でいろんな経験をしてきましたが、心が折れることはそうそうありませんでした。ただ、スポンサー営業に足を運び出した当初は、もう真っ二つでしたね。もう逃げ出してしまいたいと思うくらいにきつかった。練習以外の時間がすべて社業になり、自分の時間をまったく持てなくなったのもつらかったです。
──著書の中では、当時の壮絶な日々を赤裸々に綴られています(※3)。不眠に悩まれたエピソードもありました。
目をつぶればいろんなことを考えちゃいますし、考え出すと眠れなくなっちゃいますし。社長になるまでは10時間寝ないとダメっていうくらいよく寝ていたんですけど、当時は1、2時間寝たら目が覚めてしまっていました。それを繰り返しているうちに「また朝だ。営業に行かないと…」と。憂鬱な気持ちでしたね。
──選手としてのコンディションにも大きな影響があったのではないですか?
いや、それがまったくなかったんです。むしろレバンガ1年目はけっこう数字も残せていました。
──それは驚きました。なぜだったのでしょう?
なんでなんですかね……。たぶん、会社のことがストレスすぎて、バスケットをやっている時間がそれまで以上に楽しかったんだと思います。
バスケットをやっているときだけは、いろんなことを忘れることができたし、一切のつらいことから解放されていたんだと思います。
──経営者として、数字的な目標は掲げられていましたか?
いえ、そういったことに明るい方にお任せしていました。今はもちろん違いますが、当初は売上がどれだけ必要とか、各所の予算をどれくらいに設定しようとか、そんなこともわからないまま必死に営業に回っていました。
──なかなか衝撃的なお話です…。
自分でもそう思います(笑)。経営者になると言った時、いろんな方から「無謀だ」と言われましたが、そう言われている意味すらわからず、「なんとかなる」と思っていましたから。今は笑えますけど、当時を思うとまったく笑えませんね。
(第5回に続く)