選手として前人未踏の記録を打ち立て、同時に2億円を超える借金をしてまで北海道の地にバスケットボールクラブを残した──。
社長を兼任しながら49歳まで現役選手を続行した、レバンガ北海道の折茂武彦。本企画では、初の著書『99%が後悔でも。』を起点に、北海道のバスケットボール文化向上に身を捧げる折茂の半生やマインドを全5回で掲載する。
第3回は、折茂が14年所属したトヨタ自動車を離れ、北海道でプロ選手になるまでのいきさつと、当時の日本バスケ界の流れを振り返っていく。
(青木 美帆:スポーツライター)
現役を長く続けようとは思っていなかった
──2005年に日本初のプロバスケットボールリーグ「bjリーグ」が誕生するまで、日本のバスケ界の主流は長らく実業団でした。折茂さんが20代のころは、大学卒業後に企業の社員としてプレー→30を過ぎたあたりで引退→社業に専念という暗黙の了解があったそうですね。
はい。企業が部活という形でチームを所有し、選手を社員として採用していた当時は、当たり前ではありますが移籍は一般的なものではなかったです。
暗黙の了解で言えば「チームを移籍したら1年出場禁止」というのもあったと思います。要するに、最初に所属したチームで結果を出せなくなったら、引退して社業に専念するしか道がなかったのです。
──ご自身は30代に差し掛かったとき、どのようなキャリアプランを描かれましたか?
30代ですか……確か、トヨタ自動車で初優勝したのが32歳のころでしたけど、まだまだ現役を続けられると思っていました。そもそも僕は、入団3年目に自分の意志でトヨタを退職し、契約選手としてプレーしていましたから(※1)、引退してもトヨタには戻れなかったんですよ。
前例がないことへの不安は当然ありましたけれど、もともと先のことをまったく考えないタイプの人間。現役でいられるうちはバスケのことだけを考えて、終わった時に初めて次のことを考えればいいと思っていました。
──強いて言えば、なるべく現役生活を長く続けられることを考えていた?
いや、長く続けようとも思ってなかったですね。とにかく「勝ちたい」という気持ちだけです。契約選手として毎年個人の数字を積み重ねて、その上で勝とうとしていました。
ただ、やはりというか、初優勝から何年か経つと、スタメンから外れ、出場時間がかつての半分になり、数字も半分になりました。そこで初めて「自分はどうすればいいのだろう」と考え込む時間が非常に多くなり、メンタル的に落ち込むことも増えました。
──そんな中で、37歳で当時唯一のプロチームである「レラカムイ北海道」への移籍を決意されます。
その前年、日本代表に4年ぶりに復帰したことが、移籍を決断する大きなターニングポイントとなりました。
まさか36歳になっても代表に呼ばれるなんて想像していませんでした。なぜプレータイムが半減しているような僕に招集がかかったのかは今でもわからないんですけど、当時ヘッドコーチだったジェリコ・パブリセヴィッチからの熱烈なオファーを受け、「そこまで必要としてもらっているのならがんばろう」と覚悟を決めました(※2)。
そして、この代表活動で「俺はまだやれる」という手応えを得たことが、北海道への移籍につながったと思います(※3)。
──折茂さんはレラカムイに移籍するまで、14年にもわたって実業団のトヨタ自動車でプレーを続けたわけですが、プロチームやリーグの誕生をどのように感じられましたか?
僕はかつて、プロ選手と名乗れないことに対してかなり複雑な思いを抱えていたので、プロと名乗れる彼らに対してうらやましい気持ちがあったのは事実ですね。
当時は実業団のJBLとプロのbjリーグとが対立構造で揶揄されることも多かったですが、僕個人としてはどちらがいいとか悪いとかの意識はまったくありませんでした。2つのリーグが混在する形はいろいろな問題があったにせよ、プロリーグが日本に生まれたことには、本当に大きな可能性を感じていました。
※このインタビューは6月26日に行われたものです。
(第4回につづく)