上杉景勝が年賀挨拶と家康からの上洛要請を拒否。前田利長を抑え込んだ後、家康は5月3日、上杉討伐を宣言し、6月16日に大坂を出陣する。だがその間、三成が反家康同盟を決起。家康は宇都宮まで至りながら急遽小山で評定を開いたのだった。
監修・文/桐野作人
徳川譜代衆や関東諸大名集結。上杉攻めを続けるか止めるか
慶長5年(1600)7月、徳川家康は会津出陣のため、江戸を発して野州小山に向かった。五大老のひとりで会津120万石の大身大名、上杉景勝に豊臣政権への逆心ありとして征伐するためである。
太閤秀吉の遺児秀頼から激励を受け、いわゆる豊家恩顧の諸大名を率いての出陣は順調だった。
先行した嫡男秀忠の軍勢はすでに小山の北の宇都宮に進出していた。
すでに宇都宮城には、上杉方に備えて家康次男の結城秀康が入っていた。徳川譜代衆や関東の諸大名が従っており、いつでも出陣できる態勢にあった。また上杉領国の北に位置する伊達政宗は早くも24日から上杉方の北の守りである白石城を攻め始めていた。越後でも堀秀治が上杉方が煽動する一揆衆と戦っていた。
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