幕府権力を手中に収め武将の頂点に立った家康。この時点で後世の徳川家を脅かす存在となり得るのは豊臣秀頼であった。婚姻関係や官位で臣下扱いとし、財力も奪っていったが両者の緊張関係は続いていた。

監修・文/和田裕弘

「方広寺の再建事業」 家康の勧めで、慶長13年(1608)より片桐且元が奉行として再建が開始され、慶長17年、 2代目大仏殿と、銅造の2代目大仏が完成した。大仏に金箔を貼り、慶長19年に梵鐘が完成。

家康から秀頼へ渡されるはずの「天下人」への道が断たれる

 徳川家康は関ヶ原の戦いの勝利後、論功行賞などを行うことで実力を示し、慶長8年(1603)には将軍職に就任した。先年までは豊臣家の「家老」に過ぎなかった家康だが、将軍就任後は豊臣秀頼への年頭の挨拶を止め、豊臣家の家臣という立場から決別した。2年後には後継者の秀忠に将軍職を引き継がせ、この時点で、秀頼の「天下人」への道は断たれたかに見えた。

 秀頼が成長すれば、豊臣方は家康から秀頼に「天下」が譲られるものと期待していたが見事に裏切られた。

 ただ、徳川幕府といっても、家康個人の実力で他の諸大名を圧しているだけであり、家康としては、自分が死去すれば、秀忠は成長した秀頼にとって代わられることを懼おそれた。宣教師などの記録を見ても、秀頼が本来の天下人の後継者であり、家康は軍事的支配者ではあるものの秀頼の後見役にしか過ぎず、将軍秀忠にいたっては、単に江戸の領主という位置づけで、諸大名との間に懸絶した権力を持っていたわけではなかった。徳川家安泰のためには秀頼を一大名化し、「徳川家と豊臣家の地位を逆転させるか」「豊臣家を滅ぼすこと」が家康の残された課題だった。

 主筋の秀頼に対する扱いについては格好の手本があった。天下人となった秀吉のかつての主筋で、織田家の正統な後継者であった織田秀信に対する処遇である。家康は秀忠の将軍職就任時に、秀頼を上洛させて挨拶させることで両家の関係を逆転させようとしたが、淀殿の猛反発で実現しなかった。秀頼は秀信のように一大名に甘んじることはなかった。

慶長16年二条城での会見で徳川家と豊臣家の地位は逆転

 家康は粘り強く次の機会を待った。慶長16年3月の二条城での会見である。会見では両者の関係は対等に等しいという見方もあるが、家康のもとに秀頼が参上して挨拶したことは、豊臣家と徳川家の地位が逆転したことを如実に示すものでもあった。地位の逆転には成功したが、成長した秀頼の姿を目の当たりにした家康は脅威を感じ、改めて豊臣家を滅ぼすことを決意した可能性もある。翌月には西日本を中心とした諸大名に3か条の条々を誓約させ、翌年には東国の諸大名にも誓約させることで、大坂城攻めの準備を整えた。

 家康は、秀頼に寺社の復興に莫大な金銭をつぎ込ませることで財力を削ぎ、一大名に転落させるよう仕向けていたが、同19年7月、秀頼が復興していた方広寺のあるものに、難癖を付け、大坂城攻めの大義名分を得ることになる。

「淀君に疑われる片桐且元」 方広寺の件で家康に詰め寄られる片桐且元に対し、大蔵卿局は且元が家康のいいなりだと秀頼・ 淀殿に讒言したとされる。御簾越しに見ているのが淀殿。

【孫娘や側近を使い、どう力を削ぐか?】

 
家康の決断は...C 

方広寺の鐘銘は幕府への呪詛と決めつけて追い詰める

当初、大野治長による京都への進撃や信繁の積極的な迎撃・奇襲が提案されたが 採用されず、籠城戦となる。兵の配置や出撃路は後藤又兵衛の提案に落ち着く。

 

方広寺鍾銘事件で且元と淀殿を離間させ大坂の陣へ

 家康は、豊臣方の失態を待ち望んでいたが、ようやくその機会が巡ってきた。慶長19年の方広寺鍾銘事件である。

 秀頼は、秀吉の17回忌に向けて方広寺(大仏殿)の再建を進め、大仏の開眼供養の日取りなども決定し、順調に推移していたが、家康は鍾銘の中にある「国家安康」「君臣豊楽」の文字を不吉とし、供養などの延期まで指示した。家康の諱を「安」で切り、豊臣家の繁栄を願うという意味に解して難癖をつけた。五山の僧も巻き込むことで豊臣側の失態をより印象付けた。

 弁明の使者として駿府の家康のもとに赴いてきた片桐且元にはあえて対面せず、且元自身に解決策を模索させるように仕向けた。且元の交渉が長引いていることを憂慮した淀殿は大蔵卿局らを下向させた。家康は且元に対するのとは打って変わって女房衆には親しく接見し、何事も心配する必要はないかのように挨拶した。両様の対応をすることで大坂方の分断を狙う巧妙な作戦であった。

 且元は①淀殿を人質とする②秀頼が江戸に参勤する③大坂城を出て国替えに応じるといった方策を建言。豊臣方は、大蔵卿の伝える家康の態度とあまりにもかけ離れていることから且元を裏切り者と決めつけ、且元の殺害を計画した。

 豊臣方が混乱する中、家康は慶長19年10月1日、大坂城攻めを決定した。家康の決断を後押ししたのは、いわゆる豊臣恩顧の大名といわれる、加藤清正や浅野幸長、池田輝政らが相次いで没しており、豊臣方に味方すると思われる大名がいなくなっていたことも大きい。

 実際に秀頼の呼びかけに応じた者はひとりもいなかった。ただ、福島正則だけは開戦回避に向けて努力したが、家康の決断を覆すことなど不可能だった。

 大坂冬の陣は、11月に戦端が開かれたが、大坂城は難攻不落の鉄壁の城郭であり、包囲戦となった。膠着状態に痺れを切らした徳川方は出丸の真田丸を攻撃したものの、真田信繁の活躍で敗退してしまった。

 しかし総勢20万ともいわれる徳川方を撃退できるわけもなく、和談となった。大坂城は本丸のみを残し二の丸、三の丸の堀は埋め立てる、織田有楽斎と大野治長から人質を出す、籠城者の罪は問わない、などの条件で講和したという。

徳川方は大坂城の周りに塹壕を掘った残土で築山を造り、その上に砲台を据えた。

家康は助命する意向だった?!秀忠が自害を命じ豊臣家滅亡

 双方とも一時的な和睦と認識していたが、豊臣方が牢人衆を抱えたままであることなどを理由に、翌慶長20年4月、家康は再戦を決意。大坂城は和睦後に堀が埋められ、本丸のみを残す裸城同然の状態になっていた。籠城戦は不可能となり、出撃した大坂城の将士は各個撃破され、大坂城の運命は風前の灯となった。

 「駿府記」5月7日条には、大野治長の使者が茶臼山の家康本陣へ赴き、「牢人衆は残らず討死し、今日、姫君(千姫)は城を出られて岡山におられます。秀頼と淀殿を助命してくれるなら、大野治長をはじめ主だったものは切腹します」と本多正純を通じて家康へ伝えたところ、家康は助命に傾いた。

 しかし、翌8日、秀忠が淀殿・秀頼母子の居場所を知り、切腹するように命令した。この記述だけを見ると、家康は助命する意向だったが、秀忠が自害を命じたということになる。

 また、「大坂御陣覚書」には、最終局面に至って家康は井伊直孝を通じて、秀頼に降伏を促したという。助命の交渉中に早まって自害したという説まであるが、家康が本気で助命しようと考えていれば、確実に助命されたはずである。秀頼を討ち取ることが大坂の陣の第一義であり、助命には程遠かった。

 母子は自害し、豊臣家は滅亡した。秀頼の遺児国松丸は、5月23日六条河原で処刑されたが、女児(天秀尼)は助命された。

【結末】

大坂の陣で秀頼は死に至り、徳川幕府は盤石の体制となる
 

【家康につく大名が多かった訳】

 

将軍宣下によって家康は、豊臣政権の五大老のひとりではなく「武家の棟梁」の頂点に立つ。関白は天皇を補佐する朝廷の首座であり、征夷大将軍は、天皇の軍隊として「幕府」を預かる職で、将軍の配下に位置する諸大名たちにしてみれば、将軍職の徳川家に呼応するのは当然といえた。

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