東軍により岐阜城が落城する。西軍諸将が動揺する中、9月14日、上杉征伐の関東に釘付けとなっているはずの家康が赤坂着陣。余勢に乗じて大垣を包囲するか、秀忠率いる中山道の本軍を待つのか?

監修・文/桐野作人

関ヶ原古戦場開戦の碑

豊臣秀頼が大坂城から出陣し西軍総大将になった場合の対策

 徳川家康が江戸を発したのは9月1日である。きっかけは福島正則ら先手衆が岐阜城を攻略したという知らせがあったからだった。東海道を西に進む途中、家康は思案に沈んだ。念には念を入れないといけない。

 一番の懸念は石田三成らが豊臣秀頼を大坂城から出陣させて、西軍の総大将に祭り上げるのではないかということだった。もしそうなれば、小山評定で結束を誓った豊家恩顧の諸大名が動揺するのは必至で、もし福島正則あたりが敵対はしないまでも、戦線離脱でもしたら、東軍先手は総崩れになるだろう。

 ここはやはり、岐阜城を前線の拠点としつつも、自分が清洲城で前線に睨みをきかせつつ、西軍の様子をうかがうのがよいかもしれない。

 そうこうするうちに、東軍先手衆は長良川を押し渡って赤坂に布陣し、家康の来陣を今か今かと待ち受けているという知らせが入った。

...