シンクロナスで連載中の『平安貴族列伝』の書籍が5月21日発売!
大河ドラマで話題!第一人者が描く、現代人と変わらない「平安貴族」のリアル
詳細はこちらをチェック。
(1)「薨卒伝」で読み解く、平安貴族の生々しい人物像
(2)平凡な名門貴族が右大臣に上り詰めた裏事情
(3)朝廷の公式歴史書にまで書かれた宮中の噂の真相
(4)朝廷からも重宝された「帰国子女」の正体
(5)優秀な遣唐僧が東大寺の僧に怒られた意外な理由
(6)天皇の外戚で大出世、人柄で愛された渡来系官人
(7)原因は宴席の失態?政変に翻弄された藤原氏嫡流のエリート ☜最新回
・父は右大臣に出世した継縄
・出世を狂わせた「伊予親王の変」
父は右大臣に出世した継縄
今回は前回とは逆に、名門に生まれながらも、あまり感心できない人物を取り上げよう。先に挙げた藤原南家の嫡流である継縄(つぐただ)の嫡男、ということは藤原氏の嫡流として生まれた乙叡(たかとし)という人物である。『日本後紀』巻十七大同三年(808)六月甲寅条(3日)に載せられた薨伝は、次のような人生を語る。
先にも述べたように、乙叡の生母である百済王明信は、桓武天皇の寵愛を受けるという「内助の功」を発揮し、これによって継縄は右大臣に上るという出世を遂げた。この二人の間に天平宝字5年(761)に生まれた乙叡も、はじめは藤原氏の嫡流として、順調に昇進していった。
宝亀9年(778)に18歳で内舎人、延暦元年(782)に22歳で兵部少丞に任じられたというのは、藤原氏の嫡流として、至極順当な歩みであったと言えよう。桓武と明信の関係がいつごろから始まったのかは、知る由もないが、継縄が大納言に昇任したのが延暦2年(783)であったことを考えると、あるいはこの頃であったものか。
そして乙叡も、延暦3年(784)に24歳で従五位下に叙され、侍従に任じられた。延暦5年(786)に従五位上に昇叙され、少納言に任じられ、延暦6年(787)に右衛士佐・中衛少将、延暦8年(789)に大蔵少輔、延暦9年(790)に兵部大輔兼右兵衛督、延暦12年(793)に左京大夫と、まさに薨伝が述べるように、「頻りに顕職を歴任」した。それを「父母の故に」と表現しているのは、なかなかに皮肉なものである。
そして延暦13年(794)に34歳で参議に上り、ついに父継縄と共に議政官に並んだ。延暦16年(797)には中衛大将、延暦18年(799)には兵部卿をそれぞれ兼ね、延暦22年(803)に四十三歳で権中納言、桓武が死去した大同元年(806)には46歳で中納言に上った。
出世を狂わせた「伊予親王の変」
このまま南家の重鎮として大臣にまで上りつめるかと思われたが、実は桓武や次の平城(へいぜい)天皇が政権の中枢として重用していたのは、式家の方であった(倉本一宏『藤原氏』)。そしてその間の政治情勢のなかで起こったのが、伊予(いよ)親王の変である。
桓武の嫡流として即位した平城は、桓武や藤原氏の皇位継承構想に反旗を翻(ひるがえ)し、数々の政治改革を行なって、藤原氏をはじめとする貴族層から反撥を招いていた(倉本一宏『平安朝 皇位継承の闇』)。
このような「やる気のあり過ぎる天皇」は、概して貴族社会から浮き上がり、やがて悲惨な末路をたどることになるのであるが、そのような不穏な雰囲気のなか、大同2年(807)10月、北家の藤原宗成(むねなり)が桓武第三皇子(平城の異母弟)の伊予親王に謀反を勧めているということを聞いた南家の雄友が、それを北家の内麻呂に告げた。
宗成は、計画の首謀者は伊予親王であると「自白」し、11月に伊予親王と生母の吉子(きちし/南家の是公の女で雄友の妹)は川原寺(かわらでら)に幽閉され、飲食を与えられなかった。母子は薬を仰いで自殺し、大納言雄友が連坐して伊予に流罪となり、中納言乙叡も解官(げかん)されたのである。
この事件は、式家の藤原仲成(なかなり)が宗成を操って、南家の勢力を一気に貶しめたものとされている(目崎徳衛「平城朝の政治史的考察」)。この事件によって、議政官は式家と北家の二家のみによって構成されることとなった。なお、乙叡の父継縄は、すでに延暦15年に死去していた。
これだけだと、政争の犠牲になった気の毒な青年公卿という感もするのだが、実はこの乙叡、なかなかに個性的な人物なのであった。薨伝によると、生まれつき頑固で妾を好み、山水の好地に多くの別荘を建てて、女性と連夜、泊まっていたというのである。とんでもない人物という気もするのだが、現代と違って一夫多妻の時代、それほど特異な出来事ではなかったはずである。
また、生母の行状を考えると、乙叡がこんな人間に育ってしまったのも、なんだか気の毒にもなってくる。それよりも、ことさらにこのような行状が薨伝に記録されてしまった政治的背景を考えた方がよさそうである。
また、平城が皇太子の時、乙叡は宴席で近くに坐り、酒を吐いてしまったという。まあ、たしかに無礼な出来事ではあったが、人間なら誰しも起こり得ることではあろう。
問題なのは、平城がこのことを根に持って、後に伊予親王の事件の際に乙叡を連坐させたという後文である。天皇家嫡流でありながら、弟である嵯峨天皇の挑発に乗って「平城太上天皇の変(薬子の変)」を起こしてしまい(春名宏昭『平城天皇』)、出家させられて精神疾患とまで語られることになった平城(倉本一宏『平安朝 皇位継承の闇』)の、これは「狂気説話」の一環なのであろう。こんなことを根に持ち、無実の臣下を解任するような狂った天皇、という図式である。この薨伝を記録している『日本後紀』が、嵯峨太上天皇の主導によって編纂されていることが、大きく影響していることになる。
乙叡は、後に免されて邸に帰った後、自分に罪の無いことを知り、これを憂いたまま死去したという。時に48歳。最初から最後まで、政治に翻弄された一生であった。