ジャイアンツで約21年にわたる現役生活を終えた上原浩治。引退後、初の書籍『OVER 結果と向き合う勇気』では、その最後の数年を振り返り、重版が決まるほど反響を呼んでいる。今回は、特別にそのプロローグをご紹介する。
アメリカ、フロリダ州。
左手にグローブ、右手に硬式球。
「いくぞー」
ゆっくりとしたフォームで、指先に力をこめる。リリースされたボールは放物線を描いて、30メートル先にいる妻のグローブへと収まった。
「痛いわ、肩」
笑いながら妻に言う。妻はそのまま息子・一真へとボールを投げた。一真は妻を経由することなく、僕の胸へと強いボールを投げ返してくる。
「ナイスボール!」
僕はまた、妻へと投げ返した。
ほとんど肩が回っていないし、腕だけで投げている。初めてボールを投げる女性のような投げ方だ。
こんな投球フォームだったら、コーチに怒られるどころか、プロのレベルじゃないな。我ながら呆あきれて、再び笑いが漏れた。
1カ月前まで全力投球をしていた自分が、嘘のように感じる。
現役引退を発表し、家族の住む家、ボルチモアに戻ってきたのが6月3日。人生で初めてと言っていいくらい、ゆったりとした日々を過ごしていた。
好きなときに走り、好きなものを食べる。ときどきゴルフをして、あとはこうやって家族と家族らしい時間を過ごす。任せっきりになっていた「父親」としての務めをようやく果たすことができている。マウンドに上がることがない日々には、いままでにない充実感があった。
ただ、ときどき思い出す現役最後の日々には、悔しさを含んださまざまな思いが胸に去来した。
まだできたんじゃないか。
マウンドに上がりたい。もう少しチームに貢献をしたかった。
やっぱり野球選手は現役が華だよな――。
まあでも、無理だったか。
自分では140キロを投げているつもりでも、球速表示は135キロだった。
初めて対戦する「自分を知らない」バッターに、打たれた。
最近、「引退して笑顔がやさしくなりましたね」と言われたことがあった。
現役時代の張りつめた自分と違った自分がいま、いるのかもしれない。それくらい「マウンドに立つ」ことにかけていたのだろうなと思う。あのころとは、精神状態も体の具合も、まったく違うのだ。
実際、痛みでまったく上がらなくなった肩には驚きがあった。現役でいる、プロでいる、投げたいという気持ち……それだけが、自分の肩を支えていたのだろうか。読売ジャイアンツのユニフォームを着た最後のシーズン、投げられないほどに強い肩の痛みなど感じたことがなかったのに、たった1カ月練習をしないだけで、50メートルすら投げることができないなんて……。
現役として自身にかけていた負荷が、想像以上のものだったと知った。
引退をして数カ月、この本を作るまでに野球界にはいろいろなことがあった。それは毎年あるようなことなのだけど、プロ入り以降、初めて現役ではない立場でプロ野球を見て、メジャーを見て、高校野球を見て、ともに戦った選手たちを見て、さまざまなことを思った。
また、この本に収録された同級生との対談――(松井)稼頭央は西武ライオンズの二軍監督として現場に残り、(高橋)由伸は監督を退任したあと解説者などをしながら野球を見続けている――を通して改めて感じることもあった。
それらには、やっぱりこれはこうだよな、ということもあれば、そうかこういう見方もあるのか、ということもある。
この本では、そんなことを踏まえつつ、僕の野球人生のひとつの集大成として、大きくふたつのことについて綴つづっている。
ひとつは、プロ野球選手としての引き際だ。あまり例のないシーズン途中での引退。正直に言って、意図しない引き際だったのだが、なぜそういう心理に至ったのか、決断をしたのか、ということをできる限りその当時の思いをそのままに、第一章として記した。
現役の選手が、どんな思いで、どんなことをしながら日々に臨んでいるのか。恥ずかしい部分もあるが、知ってもらえればと思う。蛇足ではあるが、綴ったのはあくまでもそのときの感情で、ちょっと愚痴っぽいところもある。引退したいま、そうしたことにわだかまりがあるわけではないことをご承知いただければ幸いだ。
もうひとつは、引退をし、改めて思ったこと。野球選手としての自分なりの考えだ。
「正解」のない野球というスポーツにおいて、プロ選手として結果を出すために、どうする必要があるのか、どう取り組んでいけばいいのか。引退を含めて、自分の経験をとおして見えたものを第二章以降で書いている。それは野球界という大きなものに対して思うことでもあるし、それに関係した多くの人たち――メディアやファンの方――にも及ぶ。
上原浩治という元プロ野球選手が得たものとして、これからの野球界が発展していくための一助として読んでもらえればうれしい。
約21年間の現役生活を支えてくれた多くの人たちに感謝を込めて。
(『OVER 結果と向き合う勇気』上原浩治・著より再構成)