2019年5月20日、ジャイアンツで約21年にわたる現役生活を終えた上原浩治。数々の記憶に残るピッチングと、「雑草魂」と呼ばれた生き方は多くのファンの心を打った。
日米通算21年ちかくを戦い続けた男の原点。それが浪人を経た大学時代だ。
上原浩治の引退までを綴った新刊『OVER 結果と向き合う勇気』より紹介する。
高校野球の最後に訪れた転機
プロ野球選手を意識したのは大学に入ってからだった。教師を目指して入った大阪体育大学で、僕は大きく成長した。
大阪に生まれ、兄の背中を追って小学校から野球を始めたが、中学には野球部がなく陸上部に入った。その間も野球を続け、東海大学付属仰星高等学校(現・東海大学付属大阪仰星高等学校)に入学。野球部に入部した。強豪校の部類には入ると思うが、甲子園に出たことはない高校。そこで3年間、補欠の外野手兼控え投手だった。
最上級生のときのエースが侍ジャパンの投手コーチである建山義紀だったから(建山とはテキサス・レンジャースでもチームメイトになった)彼を中心としたレギュラーたちに、「なんとか俺を甲子園に連れて行ってくれ」とお願いをするような立場だ。
肩だけは強かったと思う。それでもまったく自信はなく、走り込みが嫌でピッチャーをやりたくないと思っていた。高校で野球を辞めるつもりだった。
それが変わったのが、高校3年生の夏である。
最後の夏、甲子園を目指した戦いの中、強豪校との対戦のなかで、建山が迎えたピンチで登板し抑えることができ、チームも勝った。登板は2試合だけ。
公式戦の記録としては6回1/3。
たったそれだけの登板だったけれど、マウンドへ上がることに楽しみを覚えた。
もう少し、ピッチャーをやってみたい。
大学や社会人から声が掛かるようなピッチャーではなかったから、受験をして4年間野球をまっとうしてみよう。
これがひとつのターニングポイントだった。
楽しいと思えたこと、それがすべて
大学で野球をすると決めても、プロになりたいなんてことは毛頭考えなかった。そのまま教員免許を取って、体育の先生になること。これが描いていた当時の僕の未来である。
それでも簡単にはいかなかった。まさかの受験失敗。浪人生活へと入る。家計を圧迫したくないと思い、バイトをしながら予備校の受講料を稼ぎ、あいまに勉強とトレーニング。
走り込みが嫌だ、という理由でピッチャーを回避していた僕が、わざわざ浪人をしてまで野球をしたいと思う。深夜に交通整理のアルバイトをして、朝には予備校に通って、独学でトレーニングもして・・・高校時代には想像できない自分の姿だ。
はたから見ればしんどい時期だが(いや、実際そのときは苦しかったけれど)、それでもこうした日々を続けられたのは、「楽しい」と思えた、たった6イニングだけの「経験」があったからだった。
踏み出す、行動に移すための勇気というのは、意外とシンプルなものだと思う。
楽しい、やってみたい、と思えるものにできるかどうか。
そう思うことができれば、探求心がどんどん湧いてくる。
その後、大阪体育大学に入学すると、本当に野球が楽しくて仕方なかった。バッターを抑えることができるようになると、もっとうまくなりたいという欲が湧いてくる。
野球が強い大学ではないから専用のグラウンドも、コーチもいない。だからとにかく周りの選手と協力をしながら、どうやったらうまくなるのか、自分の体を使って勉強していった。各々が、プロのキャンプを見に行き、社会人の練習に参加し、そこで得たものをチームに持ち寄っていく。全員で経験を共有することでレベルを上げていった。
トレーナーの勉強をしていた塚本さんの存在は大きくて、いろいろなメニューを考えてくれた。僕も塚本さんも、とにかく手を抜かず勉強、トレーニングをした。塚本さんが持ってきてくれた練習法を僕で試してもらう。僕が持つもっとこうなりたい、という目標に対して塚本さんがその練習法を探し、考えてきてくれる。
振り返って大事だと思うのは、そのときお互いが一切、妥協をしなかった、その姿勢だ。怖い監督も、コーチもいないから、やらされるという環境はない。だからこそ、自立して取り組まなければいけない。それも高校時代にあったような強制的な上下関係がない中(それが僕に合っていた)で、楽しさを持って過ごせたことが大きかった。
シンプルだけど、この「楽しさ」こそ、一歩を踏み出すための大きなモチベーションになることは間違いない。
(『OVER 結果と向き合う勇気』上原浩治・著より再構成)