1972年入団リング挨拶

馬場の付け人・佐藤昭雄が感じた才能

 全日本プロレス入団発表から2週間後の1972年11月14日、鶴田は公開トレーニングでダブルアーム、サイドの2大スープレックスを鮮やかに決めて報道陣を驚かせた。

 ダブルアームはアマレスにない技だが、中大レスリング部の同期で主将だった鎌田誠の証言によれば大学時代からレスリング部のマットで練習していたというし、サイドの原型はグレコローマンの俵返しの応用だから難なくやれたのだろう。

 そしてレスリング五輪代表をアピールする鶴田の大技を先輩たちが咎めることはなかった。練習パートナーになったジャイアント馬場の付け人の佐藤昭雄は、馬場に「元オリンピック選手なのにスープレックスが下手ってわけにはいかないから、ちゃんと受けてやれよ」と耳打ちされたという。

「ジャンボはアマレスの基礎があるし、グレコローマンでオリンピックに行ったくらいだから、最初からスープレックスは巧かった。ジャンボは大きいのにすべての面で器用だったよ。受け身にしても、最初はぎこちなくてもアマレスでマット慣れしてるから翌年3月にアメリカに行く時点ではとりあえず取れるようになっていた。あとは実戦的なロープワークやタックル、腕を取る、足を取る、アマレスにはないドロップキック…短期間にどんどん覚えていったよ」と佐藤は振り返る。

公開練習で披露した見事なダブルアームスープレックス。ブリッジも美しい

 この年の10月に旗揚げしたばかりの全日本には合宿所も道場もなく、馬場が借りた目白のマンションが合宿所代わりで、練習は恵比寿のキックボクシングジムの山田ジム。キックボクシングを練習する人たちが来るのは仕事が終わった夕方以降なので、その前の時間を全日本の選手が使っていた。

 鶴田は73年3月の卒業まで親戚の下宿先に住んで中央大学に通いつつ、山田ジムに通っていたが、佐藤は「シリーズ終わって俺が東京に戻ってくると〝泊まっていいですか?”“いいよ”って感じで、よく合宿所に寝泊まりしていたよ。俺は兄弟子ぶることもなかったし、年下だったから気安かったんじゃないのかな」と笑う。

 東京近郊の試合ではミュンヘン五輪日本代表の赤いブレザー姿でリングに上がり、全日本入団の挨拶をした。観客に慣れるというのもプロには重要なことだった。

 鶴田は大学卒業を待って、テキサス州アマリロを拠点に『ウェスタン・ステーツ・スポーツ・プロモーション』(通称アマリロ・テリトリー)を主宰するドリー・ファンク・シニアに預けられることになっていた。その息子はNWA世界ヘビー級王者のドリー・ファンク・ジュニアであり、鶴田がプロレスを習得する環境は整っていたのである。

栄光のミュンヘン五輪日本代表のブレザー姿。新人離れした威風堂々ぶりだ

馬場が重視した受け身とロープワーク

 日本で下積みをせずにアメリカに送られて現地でデビューするというのは、柔道日本一から67年2月にプロレスに転向した坂口征二以来のことで、鶴田は渡米までにアマレスにはないプロレスの基本技術……主に受け身とロープワークを教わった。...