元『週刊ゴング編集長』小佐野景浩氏が、かつての取材資料や関係者へのインタビューをもとに、伝説のプロレスラー・ジャンボ鶴田の強さと権力に背を向けた人間像に踏み込んだ588頁にもおよぶ大作『永遠の最強王者 ジャンボ鶴田』。

本連載では、刊行以来大反響を呼んだこの1冊に、新たな取材、証言を盛り込み改めてジャンボ鶴田の人物像に迫る。

今回は引退決断の理由、そして常に飄々としていた鶴田が最後に見せた「ジャンボ鶴田の素顔」。最強王者の葛藤と決意の裏側をお届けする。

 

馬場逝去!葛藤の中で新たな人生を選択

 大学講師という第2の人生を歩む一方でプロレス界での居場所がなくなりつつあることを感じ始めていたジャンボ鶴田は98年5月1日の全日本プロレスの東京ドーム初進出の試合後から、さらなるステップに踏み出す。

 東京ドームではラッシャー木村&百田光雄とのトリオで渕正信&永源遙&菊地毅と対戦。第3試合だったが「大きな会場だから、寝技より立ち技の方がいいと思って」と、ジャンピング・ニー、ハイブーツ、バックドロップの大技を披露。フィニッシュは百田に譲ったものの、90年4月13日の『日米レスリング・サミット』以来8年ぶりの東京ドームを勝利で飾った鶴田は満足気だった。

 そして中央大学の講師になった頃から温めていたアメリカで研究活動をやるという夢に向かっていよいよ始動。橋渡し役になってくれたのは、新人時代に可愛がってくれ、その後も親交が続いていたオレゴン州在住のマティ鈴木だ。鈴木の知り合いのオレゴン州立ポートランド大学OBから大学に鶴田のことが伝わり、受け入れ受諾の回答がきたのである。

 現地を下見した鶴田夫妻は、同年9月にジャイアント馬場夫妻にアメリカ行きのプランを打ち明け、同大学の研究交流プロフェッサーというシステムによって翌99年3月から教授待遇で赴き、運動生理学の研究とトレーニングの実践を2年間行うことになった。

 しかし99年1月31日、馬場が急逝。取り巻く状況が何もかも変わってしまった。

 当初は全日本の役員だけ辞任して、年に数えるほどしか試合に出場できなくてもプロレスラーのままでいようと考えていた。だが、馬場亡き後の全日本のことを思うと、アメリカ行きを断念するか、行くにしても向こうの夏休みを過ぎてからという考えも浮かんだという。

 問題は、すでに発給されている研究者用のJ―1ビザは改めて簡単に取得できるものではなく、この機会を逃したら、いつ実現できるかわからない。最終的に鶴田が選択したのは役員の辞任と引退。つまり全日本を去ることだ。

 2月20日、キャピトル東急ホテル(現ザ・キャピトルホテル東急)において、馬場から初めてプレゼントされたという赤いネクタイを着用して三沢光晴取締役選手会長、百田光雄取締役同席の上で記者会見に臨んだ鶴田は「ジャイアント馬場社長逝去の際、渡米の延期とかよくよく考えたんですけど、生前ジャイアント馬場氏は‟チャンスは絶対にモノにしろ。人生はチャンスとチャレンジだ”と言われていて、それを信じ、こういう大変な時期なんですけれども、渡米させていただくことになりました。また、それに伴いプロレスラーとしての引退を決意しました」と笑顔で引退発表した。

 しかし、その裏では様々なことがあったようだ。...