元『週刊ゴング編集長』小佐野景浩氏が、かつての取材資料や関係者へのインタビューをもとに、伝説のプロレスラー・ジャンボ鶴田の強さと権力に背を向けた人間像に踏み込んだ588頁にもおよぶ大作『永遠の最強王者 ジャンボ鶴田』。
本連載では、刊行以来大反響を呼んだこの1冊に、新たな取材、証言を盛り込み改めてジャンボ鶴田の人物像に迫る。
今回はジャンボ鶴田が病気で離脱した後の全日本プロレスの新風、そして鶴田と親しかった渕正信が語る闘病中の様子について。
時代は鶴田軍vs超世代軍から四天王プロレスへ
1992年10月20日、戸田市体育館で田上明、小川良成と組んで超世代軍の三沢光晴&小橋健太(現・建太)&菊地毅と6人タッグ60分1本勝負で対戦。22分54秒の激闘の末に小川が三沢のフェースロックに敗れた一戦がジャンボ鶴田にとって最後のメインイベント出場になった。
そして翌21日、日本武道館における日本武道館では全日本プロレス創立20周年記念試合としてセミファイナルでアンドレ・ザ・ジャイアント、テリー・ゴディと組んでジャイアント馬場&スタン・ハンセン&ドリー・ファンク・ジュニアと対戦して師匠ドリーに首固めで勝利。今振り返ると、この試合は鶴田のプロレス人生の集大成のようでもあった。
日本武道館から23日後の11月23日、『世界最強タッグ決定リーグ戦』開幕前日の午後5時に馬場が緊急記者会見を開き、鶴田の内臓疾患による欠場を発表。
7月の『サマー・アクション・シリーズ』は練習中に左足首の古傷を悪化させたことを理由に6年11ヵ月ぶりに欠場したが、実は鶴田は母子感染のB型肝炎のキャリアで肝機能を測るGOT、GPT値が上昇したための入院だった。この時はまもなく数値が下がったために1シリーズの欠場だけで復帰することができた。
だが、今回は数値が一般の健康的な人に比べて30倍にもなったため、10月31日に入院。勘機能低下による黄疸症状も出て、ビルビリン値は通常の20倍になってしまった。
鶴田の闘病中に全日本プロレスのリング上は大きく動いた。...