鶴田と渕の出会いは71年の和歌山国体
渕が体感した鶴田のレスリングの実力
アマリロ・テリトリー
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【ジャンボ鶴田】5ヵ月間の練習生時代。ジャイアント馬場の「トップに立つ人間」として教育とは
鶴田と渕の出会いは71年の和歌山国体
ジャンボ鶴田の全日本プロレスに入団から中央大学を卒業して渡米するまでの5ヵ月間の練習生生活を知っているのは、今も全日本で現役を続けている渕正信である。
鶴田のような入団ではなく、一介の新弟子という形での全日本生え抜き第1号は1973年10月9日に蔵前国技館で入門した大仁田厚だが、渕は大仁田より7ヵ月早く、同年3月に全日本の門を叩いている。
少年時代から馬場のファンだった渕は八幡大学のレスリング部に在籍していたが、馬場が日本プロレスから独立して新団体を旗揚げするというニュースを聞き、大学を中退して72年夏に上京。約半年、自主トレーニングで鍛えてから全日本に入門した。
当時、六本木のインターナショナルビルにあった事務所を訪ねると大峡正男営業部長、馬場の秘書でもある原軍治リングアナウンサーがいて、道場として使っていた恵比寿にあるキックボクシングの山田ジムに連れていかれた。そこにいたのが鶴田だった。
時刻は午前11時。他の選手はまだ来ておらず、鶴田はホウキで道場の掃除をしていたという。鳴り物入りで入団したとはいっても、デビューしていない練習生の身分。雑用をするのは当たり前のことである。
鶴田に履歴書を渡すと「そうか、アマレスをやっていたんだ。じゃあ、着替えて」と言われた渕は、体力テストをさせられるのかと思ったが、やらされたのはアマレスだった。
実は鶴田がグレコ100㎏以上級で優勝した71年夏の和歌山国体に八幡大学附属高校3年生だった渕も出場していたという縁があった。
「鶴田さんは一般の部で、俺は高校の部だったんだけど、練習を見ていたら相手をちぎっては投げっていう感じでまさに怪物だったよ。身体も大きくてスポーツ刈りでね。練習場の段階でもう圧倒的な存在感があったね。“凄いなあ、こんな強い人がいるんだ”って鶴田さんの存在がインプットされたよ。その怪物的な人が、俺自身が子供の頃から憧れていたジャイアント馬場さんの団体に入ったって知った時には感慨深いものがあったというか……“もし馬場さんの団体で入門ができたら、鶴田さんと一緒に練習ができるんだ”って思ったね。で、山田ジムに行ったら、鶴田さんがたったひとりでリングの上を掃除していて“あっ、鶴田さんだ!”って(笑)」(渕)...