一日にして、英傑・織田信長を生んだ桶狭間の戦いは、 若き日の元康(家康)の運命も大きく変えることになる。一介の人質武将だった男は、いかに好機を掴み、天下人への一歩を踏み出したのか?そのしたたかな決断に迫る。
監修・文/橋場日月
「今川家の幹部候補生」として桶狭間で先鋒を務めた元康
永禄3年(1560)5月、駿河・遠江・三河を支配する今川義元は2万5000の軍勢を発進させた。
目標は尾張。その先鋒として出陣したのは、当時19歳の松平元康(後の徳川家康)である。
元康は11年前の天文18年(1549)、8歳の時に駿府へ赴き、義元の下で人質としての生活を始めて以来、義元を支える名軍師・太原雪斎の臨済寺で教育を受け、今川一門の関口親永(氏純)の娘(築山殿)を娶り、将来の今川家を支える部将候補として大いに期待を受けてきた。
松平氏の本拠である西三河・岡崎は尾張との最前線でもあり、岡崎武士団を統率すべき元康にその能力無しと判断されればこの扱いはあり得ない。
1000人(一説に2500~3000人)の兵を率いる元康は5月日に織田方の包囲を突破して今川方の大高城に兵糧を搬入。
19日未明からは織田方の丸根砦を攻め落とした。
緒戦の快勝に喜んだ義元は元康に対し大高城で休息をとるよう命じたが、桶狭間山に本陣を置いた義元は信長以下2000人(諸説あり)の織田軍に強襲され、あえなく戦死してしまう。
まさかの義元の戦死にも動じず。元康、戦場からの脱出を試みる
元康の大高城は距離としては近いが、折からの悪天候で遠望も利かず低湿地の桶狭間一帯は泥沼となり身動きもままならない。
焦る元康に「義元様、お討ち死に!」の報せが入ったのは、間もなくの事だった。
「殿、織田軍に包囲される前に引き返しましょうぞ」
周囲の者たちは口々に訴える。
しかし元康は「織田方のニセ情報かも知れぬ」と動かない。
迂闊に退却して、万一義元が生き延びていれば、みすみす大高城を捨てて逃げたと責められるに決まっている。
織田方に付いていた伯父・水野信元(三河刈谷から尾張緒川にかけての領主)の使者・浅井道忠(六之介、久忠)が「それがしが岡崎への道案内を仕ります故、急ぎお立ち退きを」と勧めても元康は取り合わず、自分が桶狭間に派遣した物見(偵察)の者たちが「義元様の敗死は 疑い無し」と報告してようやく重い腰をあげた。
19日夜、闇に紛れて大高城を脱出した元康と側近・従兵30名は、道忠が路次で出くわす織田兵や一揆衆に対し「織田様御味方の水野家中、浅井道忠と兵でござる」と名乗り、またある時は本多信俊が蹴散らして、無事通過。
増水した矢作川では岡崎城下の伊賀八幡の使である三頭の鹿に背負われて浅瀬を渡ったとも伝わる(伊賀八幡宮由緒書)。
こうして翌日深夜に元康一行は岡崎城下の大樹寺へ到着。住持の登誉上人から「厭離穢土、欣求浄土」=戦乱の俗世を平和な浄土に変えよ、と諭されて新たな生き方を決意したという。
10年ぶりの岡崎城への帰還、家康に与えられた選択肢とは?
3日後、岡崎城に駐屯していた今川兵が東に逃げ去ると、元康は「空き城ならば」と城に帰還。
ここで問題となるのは、今後の大方針だ。
選択肢となったのは、以下の4つだ。
Ⓐ今川家に与して織田家と戦う
Ⓑ織田家に与して今川家と戦う
Ⓒ武田家と通じて独立を狙う
Ⓓ今川家に従うフリをしてこっそり地盤を固める
家康は、父の広忠が今川・織田二大勢力の間に挟まれ有力国衆の向背にも悩まされて苦労し続けた事を考えると「とにもかくにも己の力を高めてどんな状況にも対応できるようにせねば」という危機感を持っていた。
それをもとに、家康はどのような決断を下したのか?...