信長が近畿で激戦を繰り広げている頃、甲斐の虎・信玄が遂に動く!百戦錬磨の戦略を前に、苦境に陥った家康は浜松城での決戦を決意。しかし予想に反して、信玄は眼前で浜松城を回避。家康、苦渋の選択に迫る。
監修・文/橋場日月
信玄上洛を決意し遠江へ進軍、怒濤の勢いで家康は後手に回る
三河統一後の家康は、永禄9年(1566)12月朝廷に奏請して「徳川」に改姓。
翌年五徳を正式に竹千代(信康)の正室として迎え、永禄11年には信長の上洛戦にも援兵を派遣し、同年末、甲斐の強豪・武田信玄と呼応して今川領の遠江国に侵攻した。
浜松城に本拠を移した家康だったが、信玄と国境を接するようになると両者の間には緊張が高まる。
信長が将軍の位につけた足利義昭が元亀2年(1571)から信長と対立するようになると、すでに家康領の三河にも兵を出していた信玄は反信長包囲網の一翼を担うべく、「将軍様が信長に遺恨を重ねておられ織田討伐の挙兵をされるのでしたら、私も忠節を尽くすため上洛しご相談に与ります」と義昭に申し入れる傍ら、東三河の吉田城を攻めて救援に駆け付けた家康の軍勢を退けるなど、西への注力を強めつつあった。
交戦状態にあった関東の北条氏との同盟復活も、その一環である。
その一方で元亀3年正月には信長に「武田─北条同盟の復活で自分が三河・遠江に攻め込むという噂が流れているが、それは虚説だ」と真っ赤な嘘を書き送っている。
続けて「日本国を半分以上征服したとしても、信長殿を疎かにはしない」とはよく言ったものだ。
もっとも、信長の方も信玄の真意などはすべて承知の上で、将軍義昭に対し「自分に断りもせず諸国の大名に連絡する事を禁じているにも関わらず、違背している」などとする十七箇条の問責状を義昭に突きつけた。
義昭が信玄らと盛んに連絡を取り、反織田の運動を繰り返していることを非難したのだ。信長と義昭は完全に決裂。信玄は10月3日、甲府を出陣した。西上作戦開始である。...