日本人レスラー最強とも言われるジャンボ鶴田の強さと人間性に迫る連載、新版『永遠の最強王者 ジャンボ鶴田』は第4章に突入。本章では、アメリカ・テキサス州アマリロでの修行の日々について、当時を知る関係者への取材・証言などをもとにお届けします。

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デビュー2戦目からスタン・ハンセンと3連戦

 1973年3月23日夕刻、鶴田友美は修行地テキサス州アマリロに到着した。前年10月31日に全日本プロレスに入団した鶴田は4ヵ月半プロレスの基礎を学ぶと、日本でデビューすることなくドリー・ファンク・シニアがプロモーターを務める『ウェスタン・ステーツ・スポーツ・プロモーション』(通称アマリロ・テリトリー)に預けられたのである。

 アマリロ空港でシニア、ドリー・ファンク・ジュニア、テリー・ファンク、そして前年11月~12月の『ジャイアント・シリーズ』にNWA公認レフェリーとして参加したケン・ファーバー(日本ではハーバーと呼ばれた)の出迎えを受けた鶴田は、シニアの家に1泊して翌24日に修行の生活拠点となるホリデーイン・イーストの308号室へ。このホリデーインはシニアの顔でスペシャル・ディールになるということで多くのアマリロ・テリトリーのレスラーが住んでいた。

 旅装を解く間もなく、テリーにアマリロのTVスタジオに連れていかれた鶴田はエル・タピア相手にいきなりデビュー戦をやらされた。タピアは、鶴田がまだ日本で練習していた同年2月の『ジャイアント・シリーズ結集戦』に来日したテキサス州エルパソ出身のメキシカン・レスラーで、これといった特徴もなく、身体も小さかったために扱いは前座止まりだった。

 当時のアメリカのTVマッチは日本と違って完全にプロモーション用。売り出すレスラーの引き立て役として明らかに格下のレスラーを当てて、その強さをアピールするというのがTVマッチの目的で、タピアは引き立て役のTVマッチ要員だった。もしかしたら鶴田とタピアが来日中の2月に日本で手合わせのスパーリングをしていたことも考えられる。

 TVマッチの第3試合に出場した鶴田は、日本で身に付けた基本的なプロレスでタピアと戦い、6分52秒にサイド・スープレックスからの体固めでデビュー戦を白星で飾った。なお、当初の鶴田のリングネームは本名のトモミ・ツルタ。しかしアメリカ人にはトモミは発音しづらいようで、トミー・ツルタの名前が定着した。

 3月26日のエルパソにおけるデビュー第2戦は、のちに全日本プロレスで三冠ヘビー級王座や『チャンピオン・カーニバル』の覇権を争うなどライバルとなるスタン・ハンセンに勝利。その後も3月30日=オクラホマ州ガイモン、4月1日=ニューメキシコ州クロービスでもハンセンとのシングルマッチ(いずれも試合結果不明)。デビュー戦後はハンセンと3連戦だったのだ。

 ハンセンはドリー&テリーが卒業したウェスト・テキサス大学の出身。大学卒業後にはNFLのボルティモア・コルツ、サンディエゴ・チャージャーズでプレーしたが芽が出ず、72年9月の新学期からニューメキシコ州ラス・クルーセスでグレード7(7年生=日本では中学1年生)の体育の教師とフットボールのコーチをしていた。

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