『戦国大変』(小社刊)の著者・乃至政彦と、書籍の執筆のほか大河ドラマ『麒麟がくる』等に資料提供として参加した歴史研究家・小和田泰経が対談。以前は軟弱な大名として描かれることが多かったが、現在放映中の大河ドラマ『どうする家康』をはじめ、近年では名君として見直されている「今川義元」について。なぜ、まったく逆に描かれているのか? そして義元の人質であった家康にどのような影響を与えたのか──。

文=シンクロナス編集部

乃至政彦(以下、乃至) 大河ドラマ『どうする家康』は徳川家康が主人公ということで、前半生が今川家との関わりが非常に強いんですよね。

 今川家はフィクションで描かれるたびにイメージが全く違う。すごい変わりようですよね。

 従来であれば今川義元も息子・氏真も無能な感じ、弱々しい感じで描かれてきました。しかし今回は全くそんな感じがない。どうしてこんなにイメージが変わったんでしょうか?

 

小和田泰経(以下、小和田)これは最近見直しが進められたことが大きいですよね。

 今川義元というと馬にも乗れないから桶狭間に輿に乗って出掛けたなんて言われて、それは太っていたからっていう話もあったりするんですよね。

 『どうする家康』の第1話でも出てきてましたが、あれは室町幕府から特別な特権として得ているものなんですよね。

 馬に乗れないから輿に乗っているんじゃなくて、輿に乗ることができる特別な家柄だということなんですね。

 今だったら「センチュリー」や「プレジデント」に乗って登場しているような特別待遇なんですよ。それを信長に見せつけようとして出てきたわけですよね。

 だから全然無能でもないし、むしろ善政を敷いていた。

 

今川家の治世は時代の最先端

小和田 今川義元のお父さんの氏親が作った『今川仮名目録』によって国を支配していたわけなんですよ。(『今川仮名目録』は氏親が制定した『仮名目録』と後に今川義元が制定した『仮名目録追加』の総称)。

 つまり法治国家の先駆けみたいなものですよ。

 訴訟を上手く裁くことが大名の大きな役割です。これが出来なくなったら見放されちゃうわけですよね。

 それを自分が恣意的にやるんじゃなくて、ちゃんとした法に定めてやりましょうってしてるわけです。

 だからむしろ当時としては最先端の国づくりをしていたわけです。

 駿府(駿河国の都市、現在の静岡市)、駿河の府中だから駿府と言っていますけど、ここは日本でも指折りの繁栄している場所と言われているんです。

 それは大内氏の山口(現在の山口県)や、朝倉氏の一乗谷(現在の福井県)に匹敵するほどだった言われています。

 そう考えると今川氏の治世はそんなにおかしいことをしていたわけじゃないっていうのが最近の大きな流れです。

 昔は白粉塗ってお歯黒で描かれたりしていますけど、そもそもあれは貴族の習慣で、それだけ今川氏が京都の雅な風習を受け継いでいるからなんですよね。全然おかしな話でもなく、なよなよしていたわけでもない。

 そういう描き方が違うんじゃないのっていうのがちょうど『おんな城主直虎』(2017年)の頃から変わってきたんじゃないですかね。

 氏真も無能じゃないし、一生懸命やっていたんだよっていうのが今の傾向ですよね。今川氏が再評価されているのは静岡出身の私としては大変にありがたいことです。

乃至 輿に乗るってかなり格の高いことですよね。

小和田 そうですよ。信長は乗れないので。

乃至 上杉謙信も輿に乗って関東に行ったことがあるんですけど、あれを軟弱と見る人がいないように、今川義元も別に軟弱だったわけではない。

桶狭間の戦いで、なぜ今川義元は討たれたのか

小和田 全然軟弱じゃない。

 そもそも桶狭間の戦いは逃げるときに馬に乗って逃げていますからね。全然馬に乗れないわけじゃないですよね。馬に乗らなくて済む家柄だということですね。

 それを信長に見せつけようとしたら、輿のある場所が義元のいる場所だってわかっちゃったんですよね。

 だから馬に乗って逃げていたら、もしかしたら殺されなかったかもしれない。

 それはそうですよね。いろんな車で集まっている中で、一番高い車を目指して襲撃するようなものなので。

 他の人と同じような馬に乗っていたら義元がどこにいるかわからない。それが輿に乗っていたからその場所を集中的に攻撃されて狙われちゃったということなんですよね。

乃至 輿に乗るというのはある意味余裕を見せつけている感がありますね。輿に乗っても私は討たれない、みんなが守ってくれると。格が違いますね。

小和田 もちろん近くに接近したら甲冑も着ていたんでしょうけどね。余裕を見せるっていうのも大事なことなんですよね。

乃至 あの段階で輿に乗ってきたということは、格の違いを見せてあのまま三河全体とさらには尾張を……。

小和田 最終的には尾張を平定するつもりだったんでしょうね。それを併吞して今川領にするつもりだったんでしょうね。

 子の氏真(うじざね)もあまり評価されてなかったんですけど、『おんな城主直虎』(2017年)では理知的な形で描かれていますし、実際にお父さんの義元が亡くなったからといってすぐに今川を崩壊したわけじゃないです。氏真自身は家督を継いで駿府にいるわけですから。

 確かに、義元が討たれてしまったことによって今川家は大変なことになるんですが、世代交代しているので、うまくいけば崩壊はしなかったと思うんです。しかも氏真は、ちゃんと自分の領国を建て直そうと努力したんですね。最終的にそれがうまくいかなかっただけで。

 それはなぜかというと、当時の人は“今川氏に忠誠を尽くす”というよりも、“今川氏が自分の領土を守ってくれるかどうか”だったので。守ってくれないという段階で、離れていったんですよね。

徳川家康にとって、今川義元は父のような存在?

小和田 家康が義元のことを“太守様”と呼んで大変評価していたようなのですが、それもわからなくないです。というのも、家康が人質になった時、大変な生活を送っていたと言われていたのですが、よくよく調べてみるとそんなに待遇悪くなかったようで。

 人質というと一室に閉じ込められて出たり入ったりできないというイメージがあるんですけれど、今の静岡の一等地に屋敷をもらって暮らしていて、いろんなとこへ行っているわけです。

 しかも太原崇孚(雪斎)という今川義元の軍師だったお坊さんについて、お勉強も許されていたと言われているぐらい、かなり良い待遇だったわけですね。

 

 家康自身が元服した時に、義元も元の字をもらって「元信」と名乗り、その後に「元康」と名前を変えています。当時は主君の名前を拝領するというのは、大変に栄誉ことですから、それだけの待遇を得ていた。そう考えると、家康は義元に対してお父さんのような親しみを感じていたとしても不思議ではないですよね。

 だから、どういう心境でだんだん離藩していくのが気になるところです。家康自身はそれについて何も語っていないので分からないですけれども、どこかで今川家とは絶たなきゃいけないということなんですよね。

 「元康」という名前の康の字は、祖父・清康からとった字なんですが、江戸時代の『徳川史観』で松平清康は大変に立派な人だと描かれていたんですけれど、最近それに対して批判的な意見もあったりして。

 まあ家康が「康」の字を自分でつけているということを考えると、家康にとっては尊敬する祖父だったと思うし、それだけの人物だったんだと思うんですけどね。これも実際のところはわからないですよね。

 清康がもっと長生きしていたら、松平氏は三河の大名として圧倒していた可能性もありますしね。そういう時代に生まれた家康は、相当大変だったんじゃないかと思いますね。

家康の中に生きる、義元の思想

乃至 家康が最終的に三河のトップに立つわけですが、もし今川家が桶狭間で負けなかったら、トップに立つのはやはり家康なのか、それとも大河ドラマ『どうする家康』にも登場した吉良義昭(きらよしあきら)なのでしょう?

 

小和田 難しいですよね。家格からすると吉良氏なんですよね。それは足利家のしょりゅうが吉良氏であって、吉良氏の庶流が今川氏ということなので。

 世が世だったら吉良氏の方がトップに立っていたんでしょうが、実力社会の戦国時代ですからね。当時の軍事力からすると、吉良氏と今川氏だったら今川氏のほうが圧倒していたので、今川氏が有利に立っていたんでしょう。吉良さんは最終的に没落する形になりますけれどもね。

 今川家は名家ということで、なんだかんだ江戸時代まで残っていますし。これはやはり、家康が今川家に対して、感謝をしていたんじゃないでしょうか。滅ぼしていないので。

乃至 あれを見ていると、今川義元の思想が生きている気がするんですよね。吉良一族は家格的には上。一方、今川義元は、軍事的には吉良一族よりはるかに上。本来であれば抑留するなりできたかもしれないのに、吉良を三河に残していく。

 名族を立てていたというのは、今川義元がすでにやっています。徳川家康が三河の主になり、天下に向かっていくわけですけど、それでも名族は大事にする。まあ、家康個人の考えは分からないですけど、今川家の体勢がちゃんと生きているのかなと思うんです。

小和田 義元のことを尊敬していて、その思想を受け継いでいるというのは、『どうする家康』で描かれているとおりの話かもしれないですね。ドラマで“太守様”と親しんで「駿府に帰りたいじゃ」なんて言っていましたけど、本当に駿府に帰りたかったかどうかは分かりませんが、義元に対しては最後の最後まで感謝していたのではないかと。

 江戸時代になっても今川家は高家旗本ですから。それはもう、並の大名よりも格式は上に置いているわけですね。吉良氏もそうですけど。

 戦国時代の戦国武将は何が大事かというと、家名を残すことですからね。なんだかんだ言って、今川家を滅ぼした武田家は滅んでいますが、今川氏は旗本として、幕末も明治維新まで残っているわけですよね。

※この記事は2023年1月に収録した動画を記事化したものです。

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