歴史家の乃至政彦氏が、日本史上もっとも名高い戦国武将、織田信長と上杉謙信について、全36回にわたって読み解く『謙信と信長』。今回は、日本史上屈指の謎と言われている「桶狭間合戦」について。なぜ信長は勝利できたのか、奇襲作戦で活躍した人物とは──?

文=シンクロナス編集部

乃至政彦 今回は、織田信長の「桶狭間合戦」についてお話ししたいと思います。現在連載中の『謙信と信長』第18回で「桶狭間合戦」について書きました。今回は音声でよりわかりやすく解説していきたいと思います。

桶狭間は山? それとも谷?

 「桶狭間合戦」には諸説ありますね。織田信長はどこで戦ったのか。山で戦ったのか、谷で戦ったのかなどいろいろ言われてきました。

 「桶狭間合戦」は山ではなくて谷間じゃないかと言われていたことがありますが、やっぱり山じゃないかということがわかってきて、今川義元は山で討たれたというのが定説になっています。

 しかしなぜ山の上にいる人物が、しかも大軍に守られているはずの義元が少数の織田信長に敗れたのか。これがよくわからず、軍事研究に詳しい方や歴史学者の先生方が諸説を論じあっています。ある程度は分かってきたこともありますが、まだまだ分からない部分があります。

 『謙信と信長』でも書きましたが、『信長公記』[首巻]を読むと議論されていることが書かれているんです。もう少し『信長公記』を素直に読めばいいのはないかと私は思います。

 そこで今回は「桶狭間合戦」について『信長公記』に書かれていることを素直に読むと何がわかるのかということをお話しできればと思います。

なぜ山の上にいた今川義元が負けたのか?

 まず見落とされがちな点が1つあります。

 今川義元の軍が押し寄せて尾張に侵攻しているわけですね。それであちこちの城を攻めさせて先陣が調子よく戦果をあげている。それで義元は桶狭間山に布陣して「我々に勝てるやつはいないぞ」と宴を楽しむ。

 一方の織田信長はこれに対抗するために清州から出ていくわけですね。ごく少数の兵で。そのあとに続々と織田軍が集まってくる。熱田神宮のほうに兵が集まって、その兵をもって信長は善照寺砦へ向かいます。

 この善照寺砦に入るところが、見落とされがちな点ではないかと思います。

 善照寺砦に入った信長は次に中島砦、つまりより今川軍に近いところに移ろうとする描写があります。この善照寺砦を守っているのは、織田信長の家臣の佐久間信盛です。

 佐久間信盛と合流して、自分の手勢2000~3000人を連れて中島砦へ移るぞと決めるわけです。『信長公記』にはこのように書かれています。

 「御人数立られ、勢衆揃へさせられ、様躰御覧し」

これは「兵を整えられて、勢衆を揃えさせて、その様躰をご覧になっている」と読むわけです。

2つの部隊があった? 信長勝利の策とは?

 まず「御人数立られ」とあるのは、信長の手勢を再編成して、これから連れて行こうというところを書いているかなと思います。その後、「勢衆揃へさせられ、様躰御覧し」とあります。

 これは、信長が編成しているわけではない。なぜなら「勢衆」には敬称がないからです。信長が引いている人数であれば御人数のように“御”がつくのですが、これがない。なのでこれは別の部隊、つまり佐久間信盛が勢衆部隊を整えている様子を信長がご覧になった、と書いているわけです。

 つまり、これは2つの部隊が作られたことを書いているわけですね。私はここが、桶狭間にとって非常に重要な要素だと思います。

 佐久間信盛はこれ以降の合戦描写で一切登場しなくなります。信盛は砦の防衛のために人数を整えたと解釈することがあるようですが、砦の防衛であれば信長が整える様子を見る必要はないし、そもそも人数を再編する必要ないんですね。

 「信盛、俺は行くからあとは任せたぞ」と、置いていけばいいわけなんです。後方の守りを任せるわけですから、信長がしっかり見る必要はない。しかし、ここでは、信長が揃えて隊列を整えさせる様子をちゃんと見ているということは、信長が何らかの指揮をとったと考えるのが妥当です。

 文書でも「御人数立られ、勢衆揃へさせられ、様躰御覧し」とあるように、信長が自分の人数を立てるのと、佐久間信盛が部隊を作るのを同じ文章につなげているわけですね。これは連動した動きだと考えるのが自然だと思います。

 その後、信長は善照寺砦から中島砦へ移ります。万単位の今川義元の本陣で信長が何をしたかというと、大した人数でもないのに桶狭間山に向かうんですね。ここでは、織田信長が人数を隠していったと『信長公記』に書いてあります。隠れながら進んだわけです。

 そして、今川軍に見られない形で脇へ行った。しかし、山を登って奇襲をしかけるなんて、古今東西成功した例はあんまりないです。現地を見た人が考えても、おそらく無理だ、と。なので、普通の奇襲ではなかったのだろうと思います。陽動しかけて、今川軍を手薄にしないと無理ですね。

 そこで私は、『信長公記』に書かれてはいない佐久間信盛の活躍があったのだろうと思考えます。佐久間信盛が率いた人数は不明ですが、信長はおそらく佐久間信盛を別働隊として陽動に使ったと考えます。実はそう思われる描写が書かれている一次史料もあるんですね。

 桶狭間が終わった後、今川家臣が安房妙本寺宛というお寺の有名なお坊さんに宛てて書いた手紙のなかで、朝比奈親徳の部隊がこの時どういう活躍したか書いてあるんですね。

 「今川義元討死無是非次第、不可過御推察候、拙者儀者最前鉄炮ニ当、不相其仕場候」

 つまり、親徳はこの時、今川義元が撃たれる寸前に鉄砲に撃たれて、今川義元の不幸を見る場に居合わせられなかったということを書かれているわけです。私は鉄砲に打たれて、親方さまのそばにいられなかった。ということは、桶狭間山が戦場になった時、そこに居なかったということです。

 しかも鉄砲に当たっていた。織田信長がもし単独で桶狭間山を攻めていたら、こんなことは起こらないと思います。なぜなら、戦場は桶狭間山ですから、そこで親徳が撃たれて親方様の側にいられないということはなかなかないだろうと。

桶狭間合戦で起きたもうひとつの奇跡

 それともう1つ、奇跡が起こっているんです。この奇跡がなくて桶狭間合戦はあのような結果にならなかっただろうと思います。それは皆さんご存知のように、雹だったのか豪雨だったのか、ものすごいことが起こり、西から東に向かって山にある木が倒れる。ということが『信長公記』に書いてあるわけですね。

 そんな豪雨で鉄砲が使えるわけがない。だから鉄砲に当たったというのは、この豪雨が起こる前であり、豪雨が起こるときにはまだ信長は隠れていたんですね。その豪雨が終わって、晴れた瞬間に、槍を手に取り、「すハかかれ」と叫び信長が突進したということは『信長公記』に書いてあります。

 そしたら信長以外に戦っていたのは誰かというと、『信長公記』を見るかぎり、佐久間信盛以外には考えられないわけですね。

 考えてみると、桶狭間合戦はものすごくセオリー通りの戦いなんですね。信長としては、佐久間信盛に鉄砲を使ってガンガン攻めさせて、桶狭間にいる守りを薄くさせようと考えた。そして守りが薄くなったときに、自分たちで攻めようと考えていたんだと思います。

 これはそんなに勝つ可能性は高くないと思うんですけど、信長にこれ以外の戦法があるかといったら、どう考えてもないんですよね。これは、川中島の上杉謙信や大阪の陣の真田信繁の戦い方にもよく似ていますけど、本陣を突く以外に逆転の方法はないんですよ。だから信長はなんとしても本陣をついて、今川義元を討ちたかった。

 この信長の最初の作戦だけだと、うまくいったかどうか分からない。ただ朝比奈親徳が捨てられたので、ある程度の可能性はあったと思います。

 今川軍は山の上にいますが、山は城ではないので防御施設があまりない。即席の陣なので、木の板を盾として並べるなど、ある程度は立てていたんでしょう。しかしその時、くすの木が倒れるレベルの豪雨と風が吹いた。ということは、この防御施設はほぼ無意味になっただろうと思います。

 なおかつ、山に陣取るというのは、飛び道具が使えると有利なはずなんです。しかしそれほどの豪雨だったら矢は飛ばないでしょうし、火縄が濡れて鉄砲も使えない。となると、守る術がないんですね。このこれらの要素が絡み合ったために、今川義元は本来討たれるはずもない戦いで負けたのではないかと思います。

『信長公記』から消えた佐久間信盛の功績の謎

 ちなみに佐久間信盛がこのような重要な働きをしたにもかかわらず、なぜ『信長公記』に書かれてないのか──これは1つ、簡単な答えがあります。

 この戦いの十数年後、佐久間信盛は長い間功績を見せられなかった。信長に口答えをしたこともあるし、役に立っていない。もう討ち死にでもしたらどうかとか、それが嫌だったら高野山でも引きこもったらどうだと、ものすごい叱責を受けるんですね。

 いわゆる佐久間信盛譴責(けんせき)状が送られてきて信盛は高野山に行くのですが、この信盛の追放劇のときに信長は、「お前は俺に仕えてから、何年も働きらしい働きがないじゃないか」とむごいことを書いているんですね。そして、大田牛一はこの追放劇のことも『信長公記』に書いているんですね。

 信長自身、この桶狭間での手柄は信盛よりも自分だと思っていたのでしょう。『信長公記』を書いた時に信長はもう亡くなっていたんですけど、太田牛一はおそらく「信長様が言っていることを嘘にしてはいけない」と忖度して、佐久間信盛の功績があったことを省略した。そのためにこんな読みにくい文章になって、諸説ありという状態になったのではないかなと思います。

 もう一度振り返ると、信長は佐久間信盛に別動隊を作らせて、今川本陣を襲撃させ、敵がどんどん山を下っていって、佐久間信盛はおとりになる。その隙をぬって、信長は桶狭間山を襲撃しようと考えていた。

 しかもそこへ天が味方して豪雨が降り、風が吹き、今川本陣がもう本陣としての機能がほとんどなくなったところへ、奇襲をかける。そして思い通りに今川義元を討ち取ったと、こうあっけない結末に終わったのだと思われます。

 これについては何かしらの形で、書いてみたいなと思います。ご清聴ありがとうございました。

この記事を音声で聞く👉【音声配信】織田信長、「桶狭間合戦」の奇襲はなぜ成功したのか

歴史家・乃至政彦さんの最新著書『戦国大変』(小社刊)が好評発売中! 

乃至政彦さんのコンテンツ『歴史の部屋』では、書き下ろし『ジャンヌ・ダルク聖女の行進』好評連載中!