いまだに根強いジャンボ鶴田最強説を検証する連載「新版・永遠の最強王者 ジャンボ鶴田」。今回は帝王ガニア、ラッシャー木村など名だたる名レスラーと対決した「ジャンボ鶴田試練の十番勝負」の模様をお届けする。
・第1戦でAWAの帝王との対決が実現
・R木村との第3戦が全日本初のプロレス大賞ベストバウトに
第1戦でAWAの帝王との対決が実現
1976年早々に「プロレスファンの手によって、鶴田を世界のスーパースターに成長させよう」をコンセプトにスタートした一大プロジェクトが『ジャンボ鶴田試練の十番勝負』である。日本アマレス協会の八田一朗会長を委員長として選考委員会を組織、ファンの投票によって世界中から10人の強豪を選出して次々に鶴田と対戦させようという企画だ。
対戦候補を公募した結果、投票総数は8万通を越え、500人近いレスラーの名前がリストアップされた。
その中で政治的な事情に関係なく、最終的に候補として絞られたのはNWA世界ヘビー級王者テリー・ファンク、AWA世界ヘビー級王者ニック・ボックウインクル、WWWF(現WWE)ヘビー級王者ブルーノ・サンマルチノ、ビル・ロビンソン、ドリー・ファンク・ジュニア、AWAの帝王バーン・ガニア、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ハーリー・レイス、アントニオ猪木、ラッシャー木村、アンドレ・ザ・ジャイアント、大木金太郎、ディック・ザ・ブルーザー、ザ・シーク、ルー・テーズの15人。
そして3月10日、日大講堂における第1戦の相手に決まったのが、AWAの帝王ガニアだ。全米のトップレスラーを招聘していた全日本だが、ガニアの初来日はサプライズと言ってよかった。
70年代のアメリカのプロレス界は、全米のアメリカのプロレス・テリトリーの約4分の3とカナダ、メキシコ、日本、オーストラリア、ニュージーランドなど各国各地のプロモーター約30名が加盟する世界最大のプロレス組織NWA、ミネソタ州ミネアポリスを拠点にシカゴ、ミルウォーキー、オマハ、カナダのウィニペッグなどの北部地区をテリトリーにするAWA、ニューヨークを拠点にフィラデルフィア、ピッツバーグ、ワシントンDC、デトロイト、カナダのトロントなどの北東部をテリトリーにするWWWFの3つの組織に分かれていた。
馬場がNWAの有力メンバーなのに対して、ガニアは60年5月にミネソタ地区のプロモーターたちとNWAを脱退してAWAを設立した男。日本の団体とは国際プロレスと69年8月から業務提携していたのである。
そのガニアの招聘に成功したのは、当時のAWAはNWA、WWWF相手にマルチ外交に方向転換していたことと、75年末で国際との業務提携が終了したことが大きい。
馬場とガニアはそれまで交流は一切なかったが、馬場はガニアと仲がいいハワイのロード・ブレアースPWF会長、古くからの友人のニック・ボックウインクルに「手を組め」と勧められていた。
一方、国際がAWAではなくカナダの大剛鉄之助ルートでの外国人招聘を選択したことで日本でのビジネス・パートナーを失っていたガニアもブレアース、ニックを通じて馬場に接近を求めていたこともあり、スムーズに全日本参戦が決まったのである。...