いまだに根強いジャンボ鶴田最強説を検証する連載「新版・永遠の最強王者 ジャンボ鶴田」。今回は危険な男と呼ばれたビル・ロビンソンとの死闘、そしてアントニオ猪木が日本に持ち帰った準エースの証・UNヘビー級王座をかけた熱戦をお届けする。
・危険な男ビル・ロビンソン
・猪木が日本に持ち帰った準エースのシングル王座奪取
危険な男ビル・ロビンソン
1976年、ジャンボ鶴田は「世界のスーパースターになってほしい」という周囲の期待に応えるべく『試練の十番勝負』に挑んだ。その過程で大きな財産になったのが“人間風車”ビル・ロビンソンとの出会いである。
ロビンソンは1938年9月18日、英国マンチェスターの生まれ。子供の頃からレスリングに打ち込んで、15歳の時に『蛇の穴』(スネークピット)と呼ばれたビリー・ライレー・ジムに入門。ここでキャッチ・アズ・キャッチ・キャンを学んだ。
『蛇の穴』はグレーター・マンチェスター州の炭鉱町のウィガンにあり、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンは元々、炭鉱夫たちのレスリング。関節技以外にも肘や膝など体の硬い部分を打撃のように用いたり、相手の体の一番弱い部分に押し当てるなどの技術もあって、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンは英国南部の上流階級からは「野蛮で危険だ」と嫌われた危険なスタイルだ。
その過酷なスパーリングを乗り越えてシューターとしてライレーに認められた者だけが『蛇の穴』所属としてプロになることができるのだが、ロビンソンは19歳でプロ・デビューし、ヨーロッパ・ヘビー級、大英帝国ヘビー級王座を獲得して欧州ナンバー1になった。
そして68年4月、29歳で国際プロレスに初来日して人間風車ことダブルアーム・スープレックスで爆発的人気を博し、それまでの「日本人は善、外国人は悪」の図式を壊して、外国人ながら国際のエースに君臨したのである。
国際を足掛かりにアメリカのAWAに進出、全日本プロレスに初来日する前年の75年12月11日には蔵前国技館でアントニオ猪木と歴史に残る60分フルタイム引き分けの名勝負をやってのけた。
そうした経緯から日本における主戦場は新日本プロレスになったと見られていただけに全日本への参加はファン、マスコミ関係者にとっては驚きだった。
裏事情を書いてしまえば、新日本プロレスとの契約は長期のものだったが、ギャラダウンの提示にロビンソンは態度を硬化。離婚問題で金銭的な問題を抱えていたロビンソンは全日本の外国人ブッカーのドリー・ファンク・ジュニアに連絡を入れたというのが真相。...