元『週刊ゴング編集長』小佐野景浩氏が、かつての取材資料や関係者へのインタビューをもとに、伝説のプロレスラー・ジャンボ鶴田の強さと権力に背を向けた人間像に踏み込んだ588頁にもおよぶ大作『永遠の最強王者 ジャンボ鶴田』。
本連載では、刊行以来大反響を呼んだこの1冊に、新たな取材、証言を盛り込み改めてジャンボ鶴田の人物像に迫る。
今回のテーマは、後輩からみたジャンボ鶴田。大仁田厚、渕正信が語るジャンボ鶴田の素顔とは。
・将来を見据えて手に入れた城
・オフにはギターを爪弾いてコンサート
将来を見据えて手に入れた城
リング上で次期エースへの道を歩むジャンボ鶴田はリング外でも着々と地固めをしていく。1976年7月に全日本プロレスの合宿所兼道場のオーナーになったのだ。
元々、全日本の合宿所は目白の3LDKのマンション、道場は恵比寿のキックボクシングの山田ジムを借りていたが、世田谷区砧に5LDKの合宿所が完成。約40平方メートルの庭には道場が作られて9月21日に道場開きが行われた。
6千万円近くかかったというが、ジャイアント馬場に「ローンは家賃として会社が払ってやる。ローンが払い終わればお前のもので、こんどはお前が売ればいい。売った金で土地や家を買いなさい」とアドバイスされて、鶴田が所有者になった。
1階はキッチン、ダイニングがあり、その奥がセミダブルベッド、ステレオ、本棚、カラーテレビを置いた鶴田の部屋。2階は大仁田、渕、薗田の個室という豪華な合宿所で、道場にはリングを設置し、バーベルやダンベルなどの器具も装備された。
「俺たちはまだ20代だけど、やったところでプロレス人生はあと20年だぞ。辞めた後の人生の方が長いんだから、ちゃんと身体のケアをしないと。酒を飲み過ぎるのも駄目だぞ」
渕正信は鶴田にそう言われていたという。合宿所&道場を持った時、鶴田は25歳だったが、すでに鶴田は人生設計を立てていたのである。
リング上では準エースでも、リングを降りれば大仁田厚、渕、薗田一治(ハル薗田)の3人しかいない後輩を可愛がった。ちゃんこを囲むのも住んでいる4人だけだから「今日は、あそこの中華に行くか」とか、鶴田がスポンサーに呼ばれている時には「一緒に来いよ」という感じで、ちゃんこを作るよりも外食が多かったようだ。
「鶴田さんは先輩風を吹かすような人じゃなかったし、名前を呼び捨てにされた記憶もないよ。鶴田さんって相撲の古いしきたりを引き摺ったプロレスの社会を変えた革命児だったんじゃないかな。タニマチとかゴッチャンとかとまったく切り離した世界にいましたよ」と言うのは大仁田だ。
合宿兼道場の完成によって練習の環境は大きく変わった。居住する場所と練習場が隣接していることで、鶴田を中心に若い選手が先輩に気を遣うことなく合同練習ができるようになったのである。...