元『週刊ゴング編集長』小佐野景浩氏が、かつての取材資料や関係者へのインタビューをもとに、伝説のプロレスラー・ジャンボ鶴田の強さと権力に背を向けた人間像に踏み込んだ588頁にもおよぶ大作『永遠の最強王者 ジャンボ鶴田』。
本連載では、刊行以来大反響を呼んだこの1冊に、新たな取材、証言を盛り込み改めてジャンボ鶴田の人物像に迫る。
今回は“仮面貴族”ミル・マスカラスのアイドル対決と柔道王・アントン・ヘーシンクとの異種格闘技戦の模様を当時の貴重な写真とともにお届けする。「アイドル対決」をきっかけに鶴田が考えるようになった「プロレスのバランス」とは?
・新風景を生んだ真夏のマスカラス戦
・通常ルールだが…柔道王と事実上の異種格闘技戦
新風景を生んだ真夏のマスカラス戦
77年8月25日、田園コロシアムで夏休みにふさわしいドリームマッチが実現した。女性ファンを開拓したジャンボ鶴田と、少年少女ファンを開拓した“仮面貴族”ミル・マスカラスのアイドル対決である。
この年、マスカラスは来日10年目。ややファンに飽きられている感もあった中、2月の8回目の来日の際にイギリスのポップ・ミュージック・グループ、ジグソーの『スカイ・ハイ』を入場テーマとして流したところ、これがマスカラスの空中殺法とマッチして人気が突如、再燃した。
『スカイ・ハイ』の仕掛け人は全日本プロレス中継ディレクターだった梅垣進は「2月にマスカラスが来日するということで、前年の12月に予告編で使ったのが最初です。実は中継で博多に行った時にディスコでかかっていた『スカイ・ハイ』が思い浮かんだんです。当時、マスカラスの人気は少し落ちていましたが、あれで復活しましたね。子供や女性のファンが増えましたし、視聴率も上がって『スカイ・ハイ』効果は絶大でした」と振り返る。
今や、当たり前になっているプロレスの入場テーマだが、実はプロレスと音楽を融合させたのはマスカラスではなく鶴田だった。
鶴田の初代入場テーマ曲はフランスのディスコ・グループ、バンザイの『チャイニーズ・カンフー』で、マスカラスの『スカイ・ハイ』より1年4ヵ月より早い75年10月30日の蔵前国技館における鶴田vsブッチャーで使用されていたのだ。
「ジャンボとは年齢が近いこともあって気が合いましたね。僕もジャンボも音楽が好きだったこともあって、馬場さんと大木さんがやった蔵前の大会のセミのジャンボとブッチャーの試合でジャンボの入場の時だけ『チャイニーズ・カンフー』を使ってみたんです。当時はディスコ・ブームだったし、何となくジャンボの新しいプロレスに合うんじゃないかなと。それからジャンボが『試練の十番勝負』で国際プロレスのラッシャー木村さんと戦う時(76年3月28日、蔵前国技館)の予告編のBGMでも流しました。当時は普通に試合を編集して、そのシリーズの日程を入れるという番組作りで、予告編というのはあまりやっていなかったと思いますね。番組を盛り上げる、シリーズを盛り上げるということで企画した記憶があります。ジャンボによってプロレスと音楽が融合して、それがマスカラスの『スカイ・ハイ』で爆発的な人気になり、さらにブッチャーやファンクスに続いて…もう、イケイケどんどん状態でしたね」(梅垣)
さて、注目のアイドル対決は、少年ファンが殺到する中でマスカラスがファンクラブの騎馬に乗って『スカイ・ハイ』で入場すれば、鶴田もファンクラブの騎馬に乗って『チャイニーズ・カンフー』で入場。親衛隊のチアガールが黄色い歓声を上げた。
しかし試合は派手なムードとは裏腹に身体を密着させる攻防が続いた。鶴田が72年ミュンヘン五輪のグレコ代表なら、マスカラスは64年東京五輪のメキシコ代表に選出されながら、それを固辞してプロ入りの道を選んだという経緯があり、レスリングの攻防に自信を持っていたのだ。
試合が動いたのは20分過ぎ。遂にマスカラスが宙を飛んでフライング・クロスアタック2連発から首と両腕を極めるメキシコ流のサブミッションで先制。絶妙なタイミングで静から動に転じるマスカラスならではの試合の組み立てだった。...