元『週刊ゴング編集長』小佐野景浩氏が、かつての取材資料や関係者へのインタビューをもとに、伝説のプロレスラー・ジャンボ鶴田の強さと権力に背を向けた人間像に踏み込んだ588頁にもおよぶ大作『永遠の最強王者 ジャンボ鶴田』。

本連載では、刊行以来大反響を呼んだこの1冊に、新たな取材、証言を盛り込み改めてジャンボ鶴田の人物像に迫る。

今回のテーマはライバル。エリート街道を進んできた鶴田の前に立ちはだかったのは同じエリートではなく、叩き上げの雑草レスラー達だった。

Index
・“和製アメリカン・ドリーム”ロッキー羽田の台頭
・エリートvs雑草の図式は馬場vs猪木から鶴田vs藤波へ

“和製アメリカン・ドリーム”ロッキー羽田の台頭

 プロレス専門誌・月刊ゴングの昭和53年(1978年)本誌6月号に特別読み物として『今年26歳・プロ転向6年・全日本プロレスの星……ジャンボ鶴田が伸び悩んでいる?』という興味深い記事が掲載されている。

 UNヘビー級&インターナショナル・タッグの2冠王者として全日本の準エースの座を揺るぎないものにしていた時期で、この記事でも技術的な面では「立体殺人技の一層の研鑽を目指して実行しており、着実に前進を続けている」と高く評価されているが、指摘されたのは「エースの座への気迫に欠ける」という精神的な部分だ。

 振り返ると、デビュー半年でジャイアント馬場に次ぐ全日本のナンバー2に駆け上がった鶴田には、全日本だけでなく、日本プロレス界全体を見渡しても同じようなキャリア、同年代のライバルは皆無だった。

 1歳年下で同じミュンヘン五輪に出場後に新日本にプロレス入団し、対抗馬と見られた吉田光雄こと長州力は、まだプロレスに馴染めずに中堅どころで試行錯誤していた時期。

 全日本の第三の男として馬場にスカウトされた大相撲の元前頭筆頭・天龍源一郎は前年77年6月に日本デビューを果たしたものの、長州と同じくプロレスにつまずき、2度目のアメリカ武者修行中だった。

 そうした中で鶴田の脅威になったのは、同じエリートの長州や天龍ではなく、一介の新弟子から叩き上げてきた雑草たちだ。

「日本マット界の将来を背負う逸材と評されていたジャンボ鶴田の前に、おびただしい数のライバルが現れ始めたのである。その多くはエリート・コースを進んできたのではない。みんな雑草のようにはき捨てられ、そこからまったく独力で這い上がり、力を伸ばし、堅実にのし上がってきた者ばかりである」と、記事の中で挙げられているはロッキー羽田、藤波辰巳(現・辰爾)、戸口正徳(キム・ドク→タイガー戸口)の3人。

 大相撲・花籠部屋の力士だった羽田は73年1月、アントニオ猪木が去ったばかりの72年1月に日本プロレスでデビュー。その後、ジャイアント馬場、坂口征二が相次いで去り、キャリア1年3ヵ月で日プロが崩壊して、他の先輩たちとともに全日本に吸収されるという不遇な新人時代を味わっている。...