元『週刊ゴング編集長』小佐野景浩氏が、かつての取材資料や関係者へのインタビューをもとに、伝説のプロレスラー・ジャンボ鶴田の強さと権力に背を向けた人間像に踏み込んだ588頁にもおよぶ大作『永遠の最強王者 ジャンボ鶴田』。

本連載では、刊行以来大反響を呼んだこの1冊に、新たな取材、証言を盛り込み改めてジャンボ鶴田の人物像に迫る。

今回のテーマも前回に引き続き「ライバル」。「打倒・鶴田」に闘志を燃やし、「もうひとり鶴田がいた!」とプロレスファンに衝撃を与えた“叩き上げ”タイガー戸口と“エリート”ジャンボ鶴田のリング内外の戦いを当時の貴重な写真とともにお届けする。

Index
・鶴田は作られた偽りのスターだ!
・「もう一人鶴田がいた!」の驚き

鶴田は作られた偽りのスターだ!

 ジャンボ鶴田の最大のライバルであり戦友と言えば天龍源一郎だが、それ以前の70年代に現れた同世代のライバルはキム・ドク…のちのタイガー戸口だ。

「最初に鶴田に会ったのはサンアントニオ・テキサス。あそこにテレビ撮りで来てたんだよ。東スポの山田(隆=テレビ解説者)さんもいた。俺は馬場さんに挨拶しに行ったけど、鶴田なんか知らん顔してたよ」

 タイガー戸口が鶴田と始めて会ったのは1975年2月5日、テキサス州サンアントニオのミニュンシパル・オーデトリアム。ジャイアント馬場と鶴田の師弟コンビがドリー・ファンク・ジュニア&テリー・ファンクのザ・ファンクスからインター・タッグ王座を奪取した日だ。戸口はキム・ドクとしてロディ・パイパーに快勝している。

 戸口は48年2月7日に韓国人の父、日本人の母の間に生まれた。母方の戸籍に入ったため、国籍は日本。鶴田より3歳上ということになる。

 67年3月に日プロに入門して大木金太郎の付き人になり、日プロが崩壊する4ヵ月前の72年暮れにロサンゼルスへ。師匠の大木がロスのブッカーだったミスター・モトに頼んで、日プロが潰れる前に海外修行に出してくれたのである。

 ここから戸口は韓国人レスラーのキム・ドクに変身する。漢字で書くと金徳。金は大木の本名・金一(キム・イル)、徳は本名から付けたもの。キム・ドクを本名だと思っているファンは多いと思うが、これはリングネームで戸口正徳(とぐちまさのり)が本名だ。

 ロスからオクラホマ、ルイジアナ、ミシシッピのNWAトライステーツ地区に転戦して73年9月にスタン・コワルスキーとのコンビで同地区認定USタッグ王座を奪取。74年には日系レスラーの大御所ミツ荒川のパートナーとしてディック・ザ・ブルーザー&ウイルバー・スナイダーが主宰するインディアナ州インディアナポリスのWWAに移った。

 WWA時代にはパット・オコーナーのブッキングでNWAの総本山セントルイスのキール・オーデトリアムやNWA本部があったチェイス・パーク・プラザホテルでのTVショー『レスリング・アット・ザ・チェイス』にも出場。74年4月6日のチェイスでのTVショーでは時のNWA世界王者ジャック・ブリスコとも対戦している。

 75年1月からはフリッツ・フォン・エリックがテキサス州ダラスを拠点に主宰する『ビッグタイム・レスリング』に転戦。エリック傘下のサンアントニオでの大会で馬場&鶴田と出会ったのである。...