元『週刊ゴング編集長』小佐野景浩氏が、かつての取材資料や関係者へのインタビューをもとに、伝説のプロレスラー・ジャンボ鶴田の強さと権力に背を向けた人間像に踏み込んだ588頁にもおよぶ大作『永遠の最強王者 ジャンボ鶴田』。
本連載では、刊行以来大反響を呼んだこの1冊に、新たな取材、証言を盛り込み改めてジャンボ鶴田の人物像に迫る。
前回、ジャイアント馬場に次ぐナンバー2の地位の苦しさを綴った。そんなジャンボ鶴田に師匠馬場超えのチャンスが訪れる。全日本プロレス主催の春の祭典『チャンピオン・カーニバル』だ。
・師匠・馬場超えのチャンスは春の祭典公式戦
・80年大会に優勝!それでも時代を掴めなかった理由
師匠・馬場超えのチャンスは春の祭典公式戦
全日本プロレスではジャイアント馬場が保持するPWFヘビー級王座とは別にエースの証になるものがあった。春の祭典と呼ばれていた『チャンピオン・カーニバル』での優勝である。
この大会は全日旗揚げ翌年の73年春に「世界中のチャンピオンを集めてトーナメントを行い、雌雄を決してみたい」という馬場の希望から恒例化された大会で、日本プロレスの力道山時代から春の場所として恒例化されていた『ワールド・リーグ戦』の全日本版と言っていい。
日本プロレスの『ワールド・リーグ戦』は年によって形式が変わったが、後年は日本人vs外国人のリーグ戦が定着。日本人選手と外国人選手のトップ同士が優勝を争うという形で、基本的には日本人対決を回避するようなシステムになっていた。
これに対して全日本の『チャンピオン・カーニバル』は組み合わせと勝ち上がり次第では日本人同士、外国人同士でも対戦する可能性があるトーナメント戦を採用。そして第3回大会はブロック別のリーグ戦の首位選手による決勝リーグ戦、76年の第4回大会からは全選手総当たりのリーグ戦になった。
馬場は日本人の同門対決は団体内の人間関係を悪くする危険性があるとして好きではなかったが、時代の流れとともにファンは伝統の日本人vs外国人から日本人対決、外国人同士の夢の対決を望むようになり、それに応えざるを得なくなったのだ。
鶴田はデビュー2年目の74年の第2回大会から参加。総当たりリーグ戦となった76年の第4回大会では前年75年12月15日の仙台における『全日本プロレス・オープン選手権』公式戦に続いて馬場と2度目の一騎打ちを行い、バックドロップに惜敗(5月1日、日大講堂)。
77年の第5回大会では3度目の対決にして30分時間切れに持ち込んでリーグ戦をトップで終了。アブドーラ・ザ・ブッチャーの優勝戦進出者決定戦を勝ち抜いた馬場と5月14日の日本武道館で雌雄を決したが、馬場の「ここ一番!」の必殺技ランニング・ネックブリーカー・ドロップに涙を飲んだ。...