元『週刊ゴング編集長』小佐野景浩氏が、かつての取材資料や関係者へのインタビューをもとに、伝説のプロレスラー・ジャンボ鶴田の強さと権力に背を向けた人間像に踏み込んだ588頁にもおよぶ大作『永遠の最強王者 ジャンボ鶴田』。
本連載では、刊行以来大反響を呼んだこの1冊に、新たな取材、証言を盛り込み改めてジャンボ鶴田の人物像に迫る。
1983年8月31日、ジャンボ鶴田はブルーザー・ブロディから「インターナショナル・ヘビー級王座」を奪取した。今回は鶴田を「強い日本人のチャンピオン」として印象づけた、通称インター王座の日米をまたぐ歴史と、ブロディとのライバル関係を綴る。
・力道山の遺産のルーツ
・同世代のブロディがライバルに!
力道山の遺産のルーツ
若大将から真のエースへのステップを歩み始めたジャンボ鶴田は、83年5月19日、赤穂市民総合体育館でニコリ・ボルコフをルー・テーズ直伝のバックドロップで下した後、6月15日にテキサス州コーパスクリスティでホセ・ロザリオ、同月18日のテキサス州ダラスでテッド・デビアスに勝って順調にUN王座の防衛を重ねたが、デビアス戦後に突如として王座返上を申し出た。
「インターナショナル・ヘビー級王座の奪取に専念するため、これまでの実績を捨てて、裸になって一から出直します。もちろんNWA、AWAの世界のベルトも狙うけど、その前にブルーザー・ブロディを倒してインターのベルトを奪わなければ、自分自身もそうだし、ファンも納得できないでしょう」というのが理由だった。
インター王座は1957年11月、カナダ・オンタリオ州トロントでデイック・ハットンに敗れてNWA世界ヘビー級王座から転落したテーズのためにNWAが新設したタイトル。
テーズは57年夏からオーストラリア、シンガポール、日本に遠征してロード・ブレアース、キングコング、力道山らを相手にNWA世界王座を防衛してアメリカに帰国。疲労の蓄積からか、同年11月にハットンに陥落したが、その後もイギリス、フランスに遠征するなど、国際的な活躍をしたことが認められて58年4月に初代インターナショナル・ヘビー級王者に認定されたとされている。
だが、実際には地味なハットンが世界王者では興行的に苦しいと考えたNWAのプロモーターたちの間でテーズのためにタイトルを新設しようという動きが生まれ、テキサスの有力プロモーターのモーリス・P・シゲールが発案して誕生した王座というのが真相のようだ。...