元『週刊ゴング編集長』小佐野景浩氏が、かつての取材資料や関係者へのインタビューをもとに、伝説のプロレスラー・ジャンボ鶴田の強さと権力に背を向けた人間像に踏み込んだ588頁にもおよぶ大作『永遠の最強王者 ジャンボ鶴田』。
本連載では、刊行以来大反響を呼んだこの1冊に、新たな取材、証言を盛り込み改めてジャンボ鶴田の人物像に迫る。
今回は谷津嘉章が語るジャンボ鶴田。鶴田最強説の対抗候補として名前が挙がる谷津の鶴田観とは。
Index
・全日本の選手に親近感を持っていた谷津
・谷津が感じた鶴田と天龍のプロレスの違い
・全日本の選手に親近感を持っていた谷津
・谷津が感じた鶴田と天龍のプロレスの違い
全日本の選手に親近感を持っていた谷津
ジャンボ鶴田が最初にシングルで激突したジャパン・プロレスの選手は、アニマル浜口に代わって長州の正パートナーになりつつあった谷津嘉章だ。
鶴田が1972年ミュンヘン五輪グレコ100㎏以上級代表なら、谷津は76年モントリオール五輪フリー90㎏級と80年モスクワ五輪フリー100㎏級(日本が参加ボイコットのために幻の代表)になっている。
谷津は学年で鶴田より6年、長州より5年下のために大学時代に両者と対戦する機会はなかったが、第2章で鶴田と同期の鎌田誠(中央大学レスリング部主将=ミュンヘン五輪フリー90㎏級代表)、鶴田が勝てなかった磯貝頼秀(ミュンヘン五輪&モントリオール五輪フリー100㎏以上級代表)が「同じ時期にアマチュアで戦っていたとしたら、3人の中で一番強い」と声を揃えるレスリングの申し子だ。
モスクワ五輪を目指していた時代には足利工大附属高校(現在の足利大学附属高校)の職員としてレスリング部で三沢光晴、川田利明を指導していたが、そうした過去は対抗戦真っ只中の当時は伏せられていた。...