元『週刊ゴング編集長』小佐野景浩氏が、かつての取材資料や関係者へのインタビューをもとに、伝説のプロレスラー・ジャンボ鶴田の強さと権力に背を向けた人間像に踏み込んだ588頁にもおよぶ大作『永遠の最強王者 ジャンボ鶴田』。

本連載では、刊行以来大反響を呼んだこの1冊に、新たな取材、証言を盛り込み改めてジャンボ鶴田の人物像に迫る。

今回は長州力が語るジャンボ鶴田。伝説の試合を戦った長州は先輩・鶴田をどう思っていたのか。

Index
・「長州は突風のように全日本マットを吹き抜けていった」と鶴田
・長州が初めて口にした「鶴田さん」との青春

「長州は突風のように全日本マットを吹き抜けていった」と鶴田

 1985年11月4日、大阪城ホールでジャンボ鶴田vs長州力の頂上決戦が60分時間切れ引き分けに終わったことで全日本vsジャパン対抗戦はひとつの山を越えた感があった。長州は故郷・新日本への郷愁を語るようになり、何度となく新日本へのUターン、あるいはジャパンの全日本からの完全独立が噂されるようになったのである。

 全日本とジャパンの戦いは、86年1月から鶴田&天龍の鶴龍コンビと長州&谷津のインター・タッグを巡るタッグ名勝負数え唄が軸になった。

 同年4月5日、横浜文化体育館で長州がハンセンからPWFヘビー級王座を奪取。全日本旗揚げの際、馬場のために誕生したPWFのベルトが外敵ジャパンの大将・長州の腰に巻かれるというはひとつの事件だったが、これは馬場が長州を「全日本マットという枠のメンバーである」と認めたという意味もあった。

 馬場の中では「ジャパンの選手も全日本という大きなフレームの中の選手」ということであり、インター王者=鶴田、UN王者=天龍、PWF王者=長州という3本柱が完成したのである。興行的に3本の柱があるというのは大きな強みだった。...