元『週刊ゴング編集長』小佐野景浩氏が、かつての取材資料や関係者へのインタビューをもとに、伝説のプロレスラー・ジャンボ鶴田の強さと権力に背を向けた人間像に踏み込んだ588頁にもおよぶ大作『永遠の最強王者 ジャンボ鶴田』。
本連載では、刊行以来大反響を呼んだこの1冊に、新たな取材、証言を盛り込み改めてジャンボ鶴田の人物像に迫る。
今回は天龍革命について。天龍源一郎の主張、そしてジャイアント馬場が革命を支持した理由とは?
・「ジャンボの背中は見飽きた!」と天龍
・「こういうジャンボの顔は今までなかった」と馬場
「ジャンボの背中は見飽きた!」と天龍
天龍源一郎がジャンボ鶴田と相容れなくなったのは1986年6月7日、高知市民文化センターにおける鶴龍コンビvsザ・ロード・ウォリアーズだったとされる。
鶴田は「ほらほら、いつまでも寝てないで起きて!」と、ホーク・ウォリアーに敗れた天龍の髪を引っ張って起こそうとした。
その時、天龍は「こういう俺みたいにひとりで相手の技を受ける奴がいるから、お前がいいカッコできるんだよ、この野郎! 金輪際、思いやりのないお前のお守りをするのはもう嫌だ!」と思ったという。
しかし鶴田への不満が芽生えたのはもっと前のことだ。全日本プロレスの社長がジャイアント馬場から松根光雄に代わって新体制になり、リング上も馬場に代わって鶴田をエースにしようという路線になった頃からだった。天龍は新体制のブッカーに就任した佐藤昭雄の改革に戸惑う一方でトップとして全日本を引っ張っていこうという気概が見えない鶴田に物足りなさを感じたという。
「ジャンボに“会社のためにはこうした方がいいって馬場さんに言ってよ”とかって言うと“源ちゃん、そんなことは俺もとっくにわかってるんだよ。でも、そんな簡単にはいかないんだよ!”って怒ったからね。ジャンボは諦めちゃっていたのかな」(天龍)
第7章でも書いたが「リングの中ではメインイベンターとして、しっかりと責任を持って試合をするけど、プロレスの会社の社長になろうなんて気はまったくないんだよ」というのが鶴田の姿勢である。
それは一貫して変わらず、85年1月に長州力がジャパン・プロレスとして全日本に乗り込んできて「もう馬場、猪木の時代なんかじゃないぞ! 鶴田! 藤波! 天龍! 俺たちの時代だ!」と俺たちの時代を高らかに宣言した後も鶴田はこう言っていた。
「僕が考える俺たちの時代は、あくまでもリング上。“テレビの主役はBIではなく鶴田、長州、天龍、藤波だ”という意識ですよ。それがマッチメークや経営にまで及ぶものではない。それまで含めてと言うなら“俺たちの時代はない!”としか言いようがないね。俺たちはオーナーではなくレスラーなんだからマッチメークなどの無言の力を否定できないけど、とにかく試合で俺たちの時代を表現するしかない。それ以上を望まれたら“俺たちの世代に、俺たちの時代はないよ”ってことですよ」
リーダーシップを発揮してくれず、リング上では87年4月に長州らのジャパン勢の多くが新日本プロレスに去っても危機感が感じられない鶴田に遂に天龍が爆発。同年5月16日、『スーパーパワー・シリーズ』第2戦の小山ゆうえんちスケートセンターにおけるタイガー・ジェット・シン&テキサス・レッド戦が鶴龍コンビのラストマッチになった。
「現状は現状として受け止めなければ仕方ないけど、お客さんには常にフレッシュ感を与えなければいけないし、強いインパクトを与えていかなければ失礼だし、ウチ(全日本)にとっても良くない。だから俺は今、ジャンボ、輪島と戦いたい。……ジャンボの背中は見飽きたし、輪島のお守りにも疲れたよ!」と、試合後に天龍がまくし立てたのだ。
ジャイアント馬場は選手のヒエラルキーを乱す言動、行動を嫌うだけに、これは思い切ったアクションだったが、馬場は天龍の主張を認めた。
6月1日の金沢におけるタイガーマスク(三沢光晴)の『猛虎七番勝負』第5戦の対戦相手として、低迷していたタイガーマスクの潜在能力を引っ張りだした天龍を目の当たりにて「素晴らしい試合だったと思うな。タイガーは、負けはしたけれども、これを機に伸びていくだろう。これはタイガーに限らず、他の選手にも言えることで、どんどんこういうカードを組んでいきたい」と、天龍のプランを受け入れることを決断したのである。