元『週刊ゴング編集長』小佐野景浩氏が、かつての取材資料や関係者へのインタビューをもとに、伝説のプロレスラー・ジャンボ鶴田の強さと権力に背を向けた人間像に踏み込んだ588頁にもおよぶ大作『永遠の最強王者 ジャンボ鶴田』。

本連載では、刊行以来大反響を呼んだこの1冊に、新たな取材、証言を盛り込み改めてジャンボ鶴田の人物像に迫る。

今回から【新版・永遠の最強王者 ジャンボ鶴田】第11章「完全無欠の最強王者」を開始します。part1となる今回は「鶴龍対決」で鶴田と共にプロレス界を盛り上げた天龍源一郎の全日本プロレス退団に焦点をあて、ジャイアント馬場の無念と鶴田の疑念が感じられる当時の貴重なコメントを綴る。

馬場の無念と鶴田の疑念

1990年5月10日、メガネスーパーの田中八郎社長とSWS設立会見に臨んだ天龍源一郎

 1990年4月19日の横浜文化体育館(現・横浜BUNTAI)におけるジャンボ鶴田vs天龍源一郎の三冠ヘビー級選手権を境に全日本プロレスは激動を迎える。

 鶴田に敗れた天龍は全日本退団を決意。激闘から4日後の23日月曜日に京王プラザホテルに部屋を取り、そこで社長のジャイアント馬場に辞意を告げたが「ここでは結論が出せないから、一度会社に持ち帰ってから返事をする」と馬場は即答を避けた。

 その後、日航ホテルでの話し合いを経て、26日にキャピトル東急ホテル(現ザ・キャピトルホテル東急)で最後の話し合いが持たれ、天龍の退団が決まった。天龍は馬場との最後の話し合いに先駆けて25日にメガネスーパーの田中八郎社長に会い、メガネスーパーが設立する新団体(=SWS)に参加することを決めていたのだ。

 そして第10章の通り、26日夕方に馬場は「将来は天龍のところとウチで対抗戦が行われることもあり得る。円満退社という形なんで、くれぐれも変な記事は書かんでくれよ」とマスコミ各社に連絡を入れたのだった。

 天龍の退団は、全日本の戦力的にはもちろんだが、馬場にとっては信頼していた人間が去るというショックも大きかった。馬場が全日本で最も信頼していたのは天龍だったのだ。天龍革命を認めたのも、根底に信頼感があったからだし、新日本の東京ドーム大会への選手派遣などの重要案件は天龍に相談していた。...