元『週刊ゴング編集長』小佐野景浩氏が、かつての取材資料や関係者へのインタビューをもとに、伝説のプロレスラー・ジャンボ鶴田の強さと権力に背を向けた人間像に踏み込んだ588頁にもおよぶ大作『永遠の最強王者 ジャンボ鶴田』。

本連載では、刊行以来大反響を呼んだこの1冊に、新たな取材、証言を盛り込み改めてジャンボ鶴田の人物像に迫る。

若い超世代軍の台頭する中、ジャンボ鶴田も覚醒の時を迎えていた。当時を知る渕正信が最も強く・怖かった時代の鶴田を振り返る。

鶴田にギブアップ勝ちした三沢、川田も新技開発

三沢のフェースロックで日本人相手に初めてギブアップ負け

 1991年に入ってスタン・ハンセンから三冠ヘビー級王座奪回、『チャンピオン・カーニバル』公式戦で田上明、川田利明を撃破し、優勝戦でハンセンに再度勝利して春の祭典制覇、三沢光晴相手に三冠初防衛、札幌で小橋健太(現・建太)とのシングルマッチに勝利と無敵の鶴田は7月20日、横浜文化体育館でスティーブ・ウイリアムスの挑戦を受けて三冠初防衛戦に臨んだ。

 ウイリアムスはオクラホマ州立大学時代にオールアメリカンに4年連続で選出され、NCAAディビジョンⅠトーナメントのヘビー級で1年=6位、2年=5位、3年=3位、4年=2位の好成績を上げているレスリングの猛者。91年当時はテリー・ゴディとの殺人魚雷コンビでハンセン、ダニー・スパイビーらとトップ外国人のポジションを争っていた。

 その後、94年7月28日の日本武道館で三沢を破って三冠王者にもなり、四天王時代の全日本プロレス・マットでデンジャラス・バックドロップを武器にトップ外国人のひとりとして、特に小橋と名勝負を繰り広げた。00年6月の選手大量離脱の時も残留して全日本に忠誠を誓い、03年1月の『新春ジャイアント・シリーズ』まで全日本に貢献した名選手だが、09年12月29日に咽頭がんにより49歳の若さで亡くなっている。

 この91年夏の時点のウイリアムスは、まだまだ粗削り。三冠初挑戦のプレッシャーと鶴田の懐の深さに攻めあぐねて本来の突進力を生かせず、鶴田はバックドロップで貫録の初防衛を果たした。

 ウイリアムスの完敗によって「もはや誰も鶴田を止められないのではないか?」という空気が漂う中で必死に巻き返しを図ったのが三沢と川田である。

 三沢は鶴田に叩き潰された後の5月17日、後楽園ホールにおける『スーパーパワー・シリーズ』開幕戦でフェースロックを初公開。この日のメインに組まれた鶴田&渕正信vs三沢&菊地毅のタッグマッチは、鶴田が三沢相手にエルボー封じの執拗なアームブリーカー攻撃、さらにはチキンウイング・フェースロックを初公開するなど、三冠戦の続きとばかりに優位に立ったが、鶴田の猛攻をエルボーの連発で振り切った三沢は、渕のバックを奪って左腕を足でロックするや、首をねじ切るようなフェースロックで一気に勝負を決めたのだ。

「もう返し技は知られてしまっているし、オリジナル的なことをやっていかないとね。研究も必要だよね」と、三沢はこの新技で再び“打倒!鶴田”を目指したのである。

 7月24日に石川県産業展示館で川田と組んでゴディ&ウイリアムスから世界タッグ王座を奪取した三沢は、初防衛戦の相手として9月4日の日本武道館で鶴田&田上を迎えた。...