侍ジャパン指揮官・栗山英樹。
ファイターズで10シーズン指揮を執り、リーグ優勝2度、日本一が1度。クライマックスシリーズには5度出場した。
大谷翔平を育て、WBCで躍動する近藤健介とは「同期」である。
けれど、栗山英樹という監督は、ずっと「批判」されてきた。
それは例えば、采配、コメントが常識的ではなかったからもしれない。
「カチン」と来ることはなかったのですか? そう聞いたとき、とても面白い話をしてくれた。
そしてそれを自著に記してもらった。その内容を『稚心を去る』より紹介する。
栗山英樹「人のせいにするのは簡単だ」
試合後は、現場で感じたことや、そこで考えたことを、必ずノートに書き留めるようにしている。頭の中で、感覚が生々しく渦巻いているうちに、できるだけ早くペンを執る。
ある日、そのノートを開いたとき、ふと気になることがあった。負けた日のメモが、ぐちゃぐちゃになっていたことだ。
決して字がきれいなほうではないが、普段から丁寧に書くようには心掛けている。仕事柄、サインをさせていただくことも多いので、ちゃんと書かなければという意識がいつもどこかにある。
でも、自分のノートは誰かに見せるためのものではない。
きっとそう思っているから、無意識のうちに雑になってしまう。それが大きな問題。そこが自分の足りていないところなのかもしれないと思った。まだ、全然ちゃんとしていない。一つひとつケリがついていない。
ちゃんとした人は、やっぱりそういうところから、ちゃんとしているのだと思う。「一流」と呼ばれる人は言うまでもなく、だ。
そう考えると、ごく日常的なところから、まだやるべきことはたくさんある。ということは、まだまだ可能性はあるということだ。
「あそこを抑えていれば……」
「あそこで一本出ていれば……」
「あそこでエラーしなければ……」
そう考えることには、まったく意味がない。
大事な場面で誰かが打たれても、打てない打席があっても、エラーしてしまっても、それでも勝つときは勝つ。
それも含めて野球なのだ。
それを、負けたときには誰かに敗因を押し付けて、自分は言い訳をしている。
ただ、それは必ずしも人間性の問題というわけでもない。いつもは人のせいにしないんだけど、そうしたくなるほど疲れ切っていたり、調子が悪かったりというケースもある。
だからベンチはそれを嘆くのではなく、人にはそういうことが起こるんだということを、知っているかどうかが重要になってくる。
「ああいう選手なんだ」と評価を決め付けるのではなく、何とかそこを抜け出させよう、乗り越えさせようと考えてみる。
でも、こっちも人間だから、必死に戦っているとカチンとくることもあるし、負けると悔しいし、イライラもする。そんなこんなをみんな踏まえて、対処する必要がある。
人のせいにするのが簡単だから、人としてどうあるべきかがわからないと、野球はちゃんとできない。
そして、それがわかってくるとより楽しいし、面白いし、どうして野球というスポーツが、この長い年月、残ってきたのか、その意味もわかるような気がする。
言い訳しないこと。それをしたら、こっちの負けだ。