中世ヨーロッパ風の架空世界の経済活動に光を当て、狼の化身ホロと青年行商人ロレンスの旅を描いたライトノベル作品『狼と香辛料』シリーズ(著:支倉凍砂)。その奥深い世界観を、西洋史を専門とする研究者が読み解く!

仲田公輔
岡山大学 文学部/大学院社会文化科学学域 准教授。セント・アンドルーズ大学 歴史学部博士課程修了。PhD (History). 専門は、ビザンツ帝国史、とくにビザンツ帝国とコーカサスの関係史。1987年、静岡県川根町(現島田市)生まれ。

2005年に電撃小説大賞銀賞を受賞した支倉凍砂『狼と香辛料』が今年2024年、再びアニメ化されて話題を呼んでいる。 私はこの作品に...続きを読む

物語の始まりに現れる二つの中世要素

 まずは『狼と香辛料』I巻の物語の始まりに注目してみたい。物語はロレンスが辺鄙な土地で毛皮を買い付けるところから始まる。ロレンスはそこからホロに出会うことになるパスロエの村へと移動していくのだが、その道中に二つの中世要素が現れる。

 1つ目は道すがら目に入った修道院である。かつてロレンスはその「どこの貴族の子弟を取り込んだのかわからない(p. 17)」修道院を商売相手にしそびれたという。

 2つ目は騎士である。ロレンスは道すがら、異教の祭りが行われると聞いて警備にあたっていた騎士に出会うが、その下級騎士を食べ物であっさりと籠絡してしまう。

 なお、ここで登場する騎士は、赤い十字の印が鎧に描かれていたという。作者が意識していたという「北の十字軍」の主役である騎士修道会のうち、刀剣騎士修道会は赤い剣、ドイツ騎士修道会は黒い十字をシンボルにしていた。

 修道院と騎士と言えば、そこが中世ヨーロッパであることが想起される要素であろう。ところが興味深いことに、修道院と有力者のコネクションが示唆されたり、下級騎士が小物ぶりを見せたりと、どこか妙に現実的な趣を感じさせる。いわゆる剣と魔法のテンプレート的中世ファンタジー世界を前提にしていると、現実に引き戻されるような思いがするかもしれない。

 実際、作者の支倉凍砂氏は各所に、一般にヨーロッパ中世はこのようなイメージを持たれているかもしれないが、実はこうだったりする、という点を随所に挿入しているように思う。そしてそれらはただフレーバーテキストとして挿入されているだけでなく、物語の面白さに直結する役割を果たしていることもある。

『狼と香辛料』世界の政治権力

 その代表の一つが、細分された政治権力である。I巻第5幕には次のような文章がある:

一部の国を除いては、基本的に国王と名前がついていてもそれは他の貴族よりも財産や領地が多く、その上で上手に立ち回り王となる正当性を周囲に認めさせただけということに過ぎず、国王だからといって国の全領土を完全に支配しているわけではない。(『狼と香辛料』(KADOKAWA)第1巻、p. 240)

 5世紀に西ローマ帝国が滅亡して以降、その旧領域である西ヨーロッパの秩序が回復するのには時間を要した。8世紀にはフランク王国のカール大帝がある程度の支配を確立したが、それも彼の後継者のあいだで細分化されて再び崩壊し、10世紀にはヴァイキングの侵入などもあってさらに混乱は深まった。一部の地域では、城を支配する領主が納める周囲数キロメートルが支配の単位となっているところすらあった

 王権に関しても、例えば上述のフランク王国のうち、分割された西フランク王国の系譜を継ぐフランス王は、王領地として支配していたのは現在のパリ周辺だけであった。しかし12世紀以降、王を諸侯の封建関係のトップに位置付ける理念の整備とともに、しだいに諸侯を影響下に取り込んでいき、中世後期には次第に中央集権的な統治を整備していった

フランス王ユーグ・カペー(在位987~996年)。カロリング家から西フランク王位を受け継いだときにはパリとその周辺を中心とするわずかな領地しか支配していなかった。(写真:See page for author / Public domain / via Wikimedia Commons)

 他方で『狼と香辛料』のモデルとなったというドイツはどうかというと、フランク王国のうち東フランク王国の流れを汲むドイツ王国が、いわゆる神聖ローマ帝国を成立させ、12世紀にはフランスと同じように封建制のトップにドイツ王/神聖ローマ皇帝が立つ体制が成立しつつあった。しかし次第に再び諸侯や都市が分立する状態となり、神聖ローマ皇帝のもとでゆるやかな連邦のように繋がることとなった

 本来は貨幣の鋳造権や裁判権など、いくつかの権限(国王大権)は国王に留保されていたが、神聖ローマ帝国では12世紀ごろから諸侯に付与されるようになっていった。苦しい状況下にある君主が、本来国王が専有する特権を切り売りするという話は、『狼と香辛料』I巻にも登場する。

 『狼と香辛料』では分立する諸侯が各々の貨幣を発行する(II巻にはその貨幣の種類の長大なリストが、ロレンスとホロのコミカルなやり取りの中で語られる場面も存在する)。それはまさに上述のような政治権力の細分化の様相に近い。注目すべきは、I巻ではそれがストーリーの核となる銀貨をめぐるトリックに活かされ、物語を面白くする種になっていることである。

トレニー銀貨をめぐる騒動

 I巻の商業面での話の中心となるのが、トレニー国が発行するトレニー銀貨の銀含有率の切り下げにまつわる騒動である。

 ロレンスは旅の途中で出会った行商人を名乗るゼーレンという人物から、トレニー銀貨の銀含有率切り上げが予定されているから、現貨幣をたくさん集めておけば差益で儲かるという情報を得るが、それは偽情報であると気づく。実際に予定されているのは切り下げだったのである。

 そこでロレンスは一計を案じ、逆に切り下げのために秘密裏に銀貨を回収しようとしているトレニー王に銀貨を大量に売却すれば大幅な利益を得ることができると考え、それに港町パッツィオのミローネ商会を巻き込む。だが、同様に集めた銀貨を売却してトレニー王からの特権引き出しを計るメディオ商会の攻撃を受けて窮地に立たされてしまう。

 『狼と香辛料ノ全テ』のインタビューによると、作者の支倉氏は実在のエピソードを参考にこのストーリーを考えたという。確かに、『金と香辛料』には銀貨の銀含有率引き下げに関する記述がある。しかし、中世後期の度量衡の複雑さを考えると、実際にはこうしたわかりやすいトリックが使えたかどうかは疑問だとも述べている。

フランス王ルイ9世(在位1226~1270年)の銀貨(グロ・トゥルノワ貨)。 / (写真:Classical Numismatic Group, Inc. http://www.cngcoins.com / CC BY-SA 3.0 / via Wikimedia Commons

 なお筆者が専門とする東ローマ/ビザンツ帝国にも、銀ではなく金だが、貴金属含有率の引き下げの事例があった。11世紀後半の皇帝たちは、目下の財政難に対する弥縫策として、回収した金貨から金含有率の低い金貨を発行して、差益を得た。半世紀のうちに、4世紀から数百年にわたって24金(!)の純度を誇ったビザンツ帝国のノミスマ金貨の金含有率は、悪い時には約半分にまで低下した(諸説あり)

 もちろん、これには貨幣の信用が下落するという長期的に尾を引くリスクが伴う。『狼と香辛料』作中のトレニー国もそうだが、基本的には危機的な財政難にあっての、その場しのぎの方策ということになる。

 『狼と香辛料』I巻は、この経済的な現象を前にして利益を引き出そうとする商人たちの駆け引きと、捕らわれたホロを救出するというスリリングなストーリーが絡み合い、スピーディーかつ目が離せない物語が展開する。

 Web上のインタビューにおいて支倉氏は、経済に興味がない人でも理解できる経済の話を目指したと述べている。実際、経済音痴の私にとっても、経済要素に歴史要素とキャラクターの魅力の絡み合ったストーリーは、読み応えがありかつ面白かった。

パリ、セーヌ川にかかるシャンジュ橋。両替商橋を意味し、中世にはその名の通り両替商が店を構えていた。『狼と香辛料』の作中でも、ロレンスがトレニー銀貨のことを尋ねるために訪れたパッツィオの両替商は橋の上にいた。(写真:ignis / CC BY-SA 3.0 / via Wikimedia Commons)

参考文献

  • 『狼と香辛料ノ全テ』電撃文庫編集部編(アスキー・メディアワークス、2008年)。
  • 「「狼と香辛料」作者・支倉凍砂さんに聞いてみた!ブロックチェーンから「逸話」は生まれるのか?【対談】」 in.LIVE、2018年5月14日。https://www.asteria.com/jp/inlive/finance/2019/
     

【続き】第4回は9月19日(木)18時更新

『狼と香辛料』編(全8回)内容

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