吹奏楽部員たちが部活に燃える日々の中で、書き綴るノートやメモ、手紙、寄せ書き……それらの「言葉」をキーにした、吹奏楽コンクールに青春をかけたリアルストーリー。ひたむきな高校生の成長を追いかける。

第14回は岡山学芸館高等学校(岡山県)#1

岡山学芸館高等学校吹奏楽部(岡山県)
岡山県岡山市の東部に位置する私立高校。1994年に金山学園高等学校から改称。サッカー部、硬式テニス部、硬式野球部などとともに、吹奏楽部は全国上位の実力を持つ部として知られている。全日本吹奏楽コンクールに通算21回出場、金賞を10回受賞。2024年度の部員数は107名。

運命のときを前にして

 10月20日、午後1時50分。

 宇都宮市文化会館で全日本吹奏楽コンクール・高等学校前半の部の表彰式が始まった。

 幕が開くと、ステージ上には出場15校の代表2名と指揮者がずらっと並んでおり、出場した高校生たちが学校ごとに集まって座る客席から拍手が起こった。

 岡山学芸館高校吹奏楽部の部長で3年生の仲田空海人(クミト)は頬をこわばらせながらひな壇に立っていた。身に着けているのは、岡山学芸館のトレードマークであるキャメル色のブレザー。ステージ衣装と間違われることが多いが、普段着ている制服だ。

(どんな結果になるんかな……)

 クミトの脚はかすかに震えていた。

 岡山学芸館は昨年まで6大会連続で金賞を受賞していた。それだけではない。この年はちょうど創部50周年の記念すべき年。もし今回も金賞になったら、通算10回目だ。

 

(あぁ、なんでこんなにいろいろ重なる大事な年に、学芸館の部長が自分なんじゃろう……)

 自分がそこにいることがふさわしくないのではないか、という思いがふとクミトの頭をよぎった。

 クミトの前には副部長で同期の安光美空(ミク)、そして、顧問の中川重則先生が立っていた。

 結果発表の前に、今回で15回目の全国大会出場となった中川先生は長年出場指揮者として表彰を受けた。たった1回出るだけでも難しいのに、15回も出るのはなかなかできることではない。

顧問・中川重則先生

 クミトは改めて恩師の偉大さを感じた。そして、さらにプレッシャーを感じた。

(でも——)

 目に力を込め、まっすぐに前を見た。

(あのとき、中川先生のあの言葉があったから、いま自分はここにいる。部長としてここに立ってる)

 そして、運命の結果発表が始まった——。

音楽に本気になれ

 クミトが吹奏楽を始めたのは小1のころ。3つ上の姉が先に参加していたことがきっかけで県内の音大の「こども吹奏楽団」に所属し、小3から打楽器を担当するようになった。

 中学校でも吹奏楽部に所属していたが、全国大会出場など華々しい経歴はない。

 そんなクミトが岡山学芸館に惹かれたのは、やはり3つ上で岡山学芸館高校吹奏楽部に所属していた姉の存在が大きかった。岡山学芸館が出演するさまざまな演奏会に足を運んだクミトは、音楽の美しさや迫力の虜になった。

 もちろん、毎日姉の様子を見ていて、ハイレベルな演奏の裏側に大変な苦労もあることをわかっていた。しかし、姉は何より楽しそうに見えた。

 中3のときには高3の姉が出場する全日本吹奏楽コンクールを見にいった。どの学校もハイレベルで、自分が中学校でやっている吹奏楽とはまったく別物に思えるほどだった。そんな中で、もっとも輝いていたのは岡山学芸館だった。

 この年、《ドラゴンの年(2017年版)》を演奏した岡山学芸館は見事金賞に輝いたのだった。

「自分も学芸館の一員として全国大会で金賞の演奏がしたい!」

 クミトは卒部した姉と入れ替わりに岡山学芸館高校吹奏楽部に入部した。

 岡山学芸館ではコンクールに挑む上で、全日本吹奏楽コンクールを目指す55人の「百合(ゆり)」とそれ以外の「向日葵(ひまわり)」に分かれる。あくまでコンクールのためだけのチーム分けで、序列もなく、できる限り同じように活動していくというのが中川先生の方針だ。

 とはいえ、クミトはやはり1年生のうちから百合に入りたかった。姉が演奏していたあのステージで自分も——!

 だが、部活に参加するとすぐ、厳しい現実を突きつけられた。同じ打楽器の同期のうち、信じられないほどうまい子が2人もいた。練習用のトレーニングパッドをスティックで叩いているだけで、明らかに自分とはレベルが違っていた。

 クミトはチーム分けのオーディションに参加したが、結果は向日葵。一方、打楽器の同期が3人も百合に選ばれており、やり場のない悔しさを味わった。

 

 そんなとき、クミトの頭をよぎったのは中川先生の言葉だった。

「下手でもいいから、音楽に本気になれ。真摯に向き合え」

(先生の言うとおりにしてたら、自分もうまくなれるんじゃろうか?)

 先行きが不安だったが、とにかく練習を続けていくしかなかった。

楽器との運命の出会い

「ハープやってみない?」

 ある日、唐突にもうひとりの顧問の高木恵子先生に言われたとき、クミトは困惑するしかなかった。

(ハープって、あの、縦に並んだ弦を指で弾く、でっかい竪琴みたいな楽器だよな? オレ、ピアノも弾けないし、得意なのは音階がないバスドラムやシンバルじゃし、そもそも五線譜を読むのも苦手なのに……)

 クミトは悩んだ。だが、明らかに自分より上手に見える同期たちの演奏の様子を見て、決心した。

(全国大会に出るなら、自分にしかない最強の武器を見つけるしかない! それがハープじゃ!)

 クミトは高木先生に「やります!」と答え、すぐに3年生でハープを担当している先輩に演奏法を指導してもらった。弦を指で弾くのも想像していたより難しかったし、7つのペダルを両足で操作して音を変えることも初めて知った。

仲田空海人さん(3年生・ハープ)

 クミトはハープの練習に没頭した。先輩からは「やりすぎると指に水ぶくれができちゃうから、無理せんようにね」と言われていたが、それでも練習をやめようとしなかった。

 いつも頭には「下手でもいいから、音楽に本気になれ。真摯に向き合え」という中川先生の言葉があった。

 人差し指と親指には水ぶくれが、薬指と中指には血豆ができた。ハープの練習に熱中しているときは何も感じないが、演奏をやめた途端に「いってー!」と顔をしかめた。

 練習の甲斐あって、高2に進級するころにはもう水ぶくれも血豆もできないくらいクミトの指の皮膚は硬くなっていた。3年生の先輩が引退し、岡山学芸館でハープが弾けるのはクミトだけになった。

(もし自分が下手じゃったら、ハープが目立つ曲が演奏できなくなったり、学芸館全体の演奏のレベルを下げてしまったりするじゃろう……)

 そう考えるとプレッシャーだったが、反面、燃えるものもあった。
(ハープはようやく見つけた自分の最強の武器じゃ。ハープをやるようになって、やっと自分はこの場所にいていいんだと思えるようになった——)

 中川先生や高木先生、みんなからもハープの演奏を褒めてもらえるようになった。不透明だったクミトの先行きが明るくなってきた。

 高2ではオーディションで初めて百合に選ばれた。自由曲《アルメニアン・ダンス part II》(アルフレッド・リード)ではハープを演奏することになった。

 夢にまで見た全日本吹奏楽コンクールにも出場した。クミトは極度の緊張に襲われながらステージに立った。ハープの見せ場の部分はどうにか集中して演奏できた。だが、その代わり、別の部分でミスを重ねてしまった。

 一瞬、「あんまり聞こえない部分じゃからいいか……」と思ってしまい、そんな自分に腹が立った。

 表彰式では、審査結果が発表されるまで「もし自分のミスで金賞を逃したら……」と気が気でなかった。結果は金賞。入部時の夢を叶えたクミトだったが、その表情は冴えなかった。

止まらない涙

 年が明け、2024年1月になった。

 本来なら、3年生が引退する10月に次の幹部が決定する。だが、当初の予定から3カ月も経っているのに、まだ先生は幹部を発表していなかった。3年生にまとまりがないことが原因だった。

 ある日、中川先生が「信頼できる人の名前を書け」と紙を配り、アンケートをとった。

(たぶん、オレの名前を書く人は誰もいないな。名門の生駒中出身の福田奈々美(ナナミ)が適任じゃろう)

 ミーティングのときにいつも発言しているのはナナミやほかの部員たちで、人前で話すのが苦手なクミトは黙っていることが多かった。

 ところが、部長として発表された名前は「仲田空海人」——なんと自分だった! リーダーシップのあるナナミやミクは副部長だった。

「先生、どうしてですか? 自分は部長のタイプではないです……」

 納得できないクミトは涙目で中川先生に辞退を申し入れた。すると、先生は笑みを浮かべながら言った。

「クミトはハープの練習を人一倍頑張ってた。コツコツ頑張る姿勢が部長としてはいちばん大事で、それを見た部員たちも自分から動くようになる。クミト以上に部長に適任の部員はいないよ」

(これって、信頼されてるってことかな……)

 やはり自分にはできないと思う。でも——ハープだってできたんだ。部長にも挑戦してみよう!

 クミトは名門吹奏楽部のリーダーを引き受けたのだった。

 岡山学芸館では、部活中に大事だと感じたことがあったらすぐメモをとる習慣がある。ほかの部員たちと同じように、クミトも毎年スケジュール帳を購入し、メモ帳としても使っている。

 部長になったとき、クミトはその手帳にこう書いた。

  今までの役割はもう終わり。
  今までの流れを変える。
 

 自信がなくて消極的だった自分も、まとまりがなくて先生をがっかりさせてきた吹部全体も、ここから流れを変えなければいけない。クミトはそう決意したのだ。

 しかし、実際に岡山学芸館の部長になってみると、厳しいことが多かった。

 ミーティングでもクミトはうまく話し合いを進められず、副部長が仕切ることが多かった。

「自分が部長じゃないほうがいいんじゃないか……」

 思い詰めたクミトは高木先生に相談した。

「あなたの頑張りは、みんなちゃんとわかってるから」

 先生はそう言ってくれた。ほかの先生たちも優しい言葉をかけてくれた。それでも、クミトの気持ちは完全には晴れなかった。

 そんなある日、部活が終わって学校を出た後、スマートフォンに中川先生から電話がかかってきた。

「クミトな、これまでの部長と自分を比べて自分は向いてないって思ってるかもしれんけど、お前はお前のままでいいから。先生も高校時代に部長をやってたけど、全員にストライキされたことがあるんや。完璧な部長なんておらん」

 岡山学芸館の卒業生でもある中川先生は自身の経験をそう語ったあと、もう一度、「お前はお前のままでいい」と繰り返した。

 その瞬間、クミトの目から涙があふれ出した。

 もしかしたら、ずっと自分は自分じゃないものを理想とし、自分じゃないものになろうとしていたのかもしれない。それは虚しい努力で、自分はダメな存在だと思い込んでしまうだけだった。

 でも、そうではない。先生が「お前はお前のままでいい」と言ってくれたから……。

 クミトはスマートフォンを耳に押し当てたまま泣きじゃくったのだった。

 

 クミトは部長として、打楽器パートの百合メンバーとして、全日本吹奏楽コンクールを目指していくことになった。

 中川先生が選んだ今年のコンクール曲は課題曲《行進曲「勇気の旗を掲げて」》(渡口公康)と自由曲《オセロ》(リード)。アルフレッド・リードの曲は2年連続だ。

 クミトが楽譜を見てみると、ハープがない曲だった。

(残念じゃけど、小学生のころからずっとやってきた打楽器で最後のコンクールを終えられるのもいいかな……)

 楽譜の上では、《オセロ》は超絶技巧を必要とするような高難度の曲ではない。しかし、それはいかに細部に至るまで音楽を奏でられるかということだ。超絶技巧を見せつけることなく、高度な音楽性で勝負するというのは、ある意味ではハードルの高いことだ。

 また、1977年に初演されたこの曲は、1980年代から90年代にかけて全国大会で演奏されることが多かった往年の名曲。天理高校(奈良県)、関東第一高校(東京都)、神奈川県立野庭高校、北海道札幌白石高校など当時の伝説的なバンドが名演を残している。

 21世紀、令和の時代になって《オセロ》を選曲するのは、岡山学芸館だからこその挑戦だと言えた。

 クミトたちは練習を重ね、8月6日におこなわれた岡山県大会を突破した。8月24日には中国大会に出場。3枠の中国代表に選出され、通算21回目となる全日本吹奏楽コンクールへの出場が決まったのだった。

<次回>【吹部ノート 第15回】岡山学芸館高等学校(岡山県)#2 

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