「歴史ノ部屋」でしか読めない、戦国にまつわるウラ話。今回は、前回に引き続き「信長の野望」シリーズより、「信長包囲網」について。

 コーエーテクモゲームスの『信長の野望』シリーズは、累計1000万部の実績を誇る国民的ゲームシリーズである。タイトル通り主人公は織田信長だが、システムも信長の国盗りイメージが取り入れられている。

 無印時代の初代作品では、プレイヤーは織田信長と武田信玄のどちらか片方の大名しか選べなかった。しかも舞台地域は信長が進出した畿内地域がメインで、関東は出てこなかった。次回作「全国版」になると、日本中の「大名」全てが平等に国盗りと天下統一ができるようになった。信長が絶対ではない、日本全国の大名か主人公となったのである。

 こうして群雄割拠の戦国時代ブームを呼び招いた本作は、もはや「戦国シミュレーションゲーム」の代名詞と言って差し支えないだろう。

織田信長像

歴史研究の変化

 ところで「信長包囲網」の研究は、今も進んでいるが、通説を大きく塗り替えることになったひとつの転機がある。

 シリーズでいうと「革新」が発売されてしばらくまで(「天道」の発売前まで)、一般的な歴史認識では、信長の傀儡とされることを不満に思っていた将軍・足利義昭が、信長に隠れて周辺大名に信長討伐の御内緒を発給していたとされていた。

 ところが2007年にと東京大学史料編纂所准教授の歴史学者・鴨川達夫氏が、岩波新書の『武田信玄と勝頼』で指摘したことで、通説が大きく変わってしまう。

 年次が付されていない将軍の「御内緒」が、信長包囲網が形成された1571年(在京する将軍が、信長から離反する直前)ではなく、将軍が京都を追放されて包囲網が崩壊されたあとの1575年であることを明らかにしたのである。

 ただし新説は公開されたからと言って全てを一度に変えてしまうわけではない。学界でも新説は慎重に再検討が重ねられ(目に入らず、または関心が向かないで無視されてしまう新説も少なくない)、定着には時間を要する。それにどれだけ論理的な新解釈であっても、別の史料の発見や再確認で、否定されてしまうことも少なくない。

 明確な再検討がなされないまま、なんとなく多くの研究者が新説を採用して、通説化してしまうこともある。

 ともあれ時が経つにつれて、義昭が自分から諸大名に呼びかけて、こっそりと包囲網を形成していったという過去の通説は支持されなくなった。

 そこからさらに一般的な歴史ファンの認識ともなると、さらにタイムラグを要する。また、信長の野望も一般的な歴史解釈に配慮する必要があるので、新説をすぐに採用することはない。

 また、通説が変わっていく流れにおいて、変わっていない事実もある。

 表向き信長と義昭が友好的であったこと、その後義昭が織田信長包囲網に参加して敵対する流れ自体はそのままなのだ。だから、ゲームシナリオの演出は新説の導入に積極的な最新作「新生」で特に変わっていくのだが、大名関係や勢力図には大きな影響を与えていないのだ。

 そういうわけで、研究成果とシリーズの信長包囲網は、大きな齟齬を来すことなく、併存してきたようである。

歴史イベントの「包囲網」

 シナリオ以外にも包囲網イベントというものがある。...