【光秀の武略に学ぶ 目次】
(1)企業規模から理解する戦国武士
・はじめに
・戦国武士の立場
・新しい用兵と軍制
(2)徒士明智光秀の美濃時代
・美濃土岐義純の随分衆から
・斎藤道三という男
・道三と高政の父子相克
・若き日の光秀が美濃で学んだもの
(3)牢人明智光秀の越前時代
・牢人になった光秀
・称念寺近辺の僧侶たちから薬学を学ぶ
・滋賀郡田中城ゆかりの女性と結婚
・〈永禄の変〉と高嶋田中籠城
・明智光秀と幕臣
(4)細川藤孝中間にして将軍足軽
・織田信長との出会い
・信長の上洛
・在京する将軍足軽衆の明智光秀
・本国寺襲撃事件
・二条御所の建設
(5)明智光秀、武将になる
・金ヶ崎合戦
・明智光秀の成長
・比叡山焼き討ちと明智光秀
・旧山門領問題と元亀争乱
・武田信玄、足利義昭の裏切り
(6)前代未聞の大将・惟任光秀
・惟任改氏と信長の期待
・事実上の《近畿管領》
・本能寺前年の左義長
(7)近畿管領の軍法制定
・惟任光秀の先駆性
・戦国期の軍制とは
・光秀のセンス
(8)本能寺の変と山崎合戦☜最新回
・光秀最後の失敗
・光秀と信長の違い
・大義なき挙兵
・山崎合戦
・おわりに
光秀最後の大失敗
ここからは惟任光秀の失敗を物語ることになる。これまで光秀は、その合理的知性、ならびにその逆となる不合理なまで織田信長への期待の高さにより、成功してきた。
ところで本能寺の変は、なぜ起こしたのかその動機は不明とされている。しかし一つだけ確実なことが言える。それはもし信長が少数のお供だけで本能寺で宿泊していなければ、光秀は決起しなかったことである。
光秀と信長の違い
武略の人・光秀は最適解に合理的な行動を取ることで、台頭してきた。それに引き換え、信長は冒険的で時々ものすごく無謀なことをしてきた。
少数の兵で大人数の今川軍に勝利した桶狭間合戦。浅井長政に裏切られて窮地に陥った越前討伐と金ヶ崎合戦。足軽と共に最前線に飛び出て、負傷した天王寺(てんのうじ)合戦。
こうした思い切りのよさが信長を英雄に押しあげた。だが、それだけではない。〈道三の譲り状〉という大義名分をもって美濃を攻略し、さらには〈天下布武〉の理想を掲げて幕府を再興した。以後も天下を正すための戦いに奔走した。高い理想を掲げて、人を信じることは、合理的前進の足かせとなることも多い。本能寺に入った時の信長も、ここで光秀が裏切ることなどないと思っていた。もし今の自分を襲う人物がいたら、その者はその場で一切の信望を失う。信長は、こうした英雄的かつ合理的判断に基づいて、本能寺に入ったのだろう。
しかし光秀は、斎藤道三がそうしてきたように、丹波では国人たちの裏をかき、これを打ち負かして、一国平定の大業を成し遂げ、〈前代未聞の大将〉に出世した。
だからこそ今ここで信長を討ち、京都を制圧すれば、朝廷を容易に操れることが見えていた。織田の重臣たちは毛利や上杉などの大敵と対峙しており、すぐに動けない。ここで、足利義昭に「将軍様のために働きます」と申し出れば、多数派工作に乗ってくれるに違いない。
光秀には光秀なりの合理的判断があったのだ。だが、信長にあって光秀にないものもあった。理想と大義である。
大義なき挙兵
古今東西、すぐれたリーダーは数多あるが、トップリーダーには必ずそれがある。野望や私利私欲のみで、勝ち得るのは、一時的な繁栄である。破れてなお、歴史に名を残すことができるのは、理想高き指導者とそれに尽くした者たちだけである。だから合理的に徹することは重要だが、重大な決断をする時に忘れていけないのは、人の心を動かす大望である。そこを光秀は見誤った。
天正10年(1582)6月2日、光秀は本能寺で信長を殺害した。だがその後、光秀は確たる大義名分を全く唱えていない。何の理想もなく、ただ勝算の有無だけによって挙兵したことはこれに明らかだろう。...