乃至政彦『歴史ノ部屋』。今回は『天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった』を共著した高橋陽介氏と「関ヶ原合戦」をテーマに対談。第2回のテーマは近年論争になっている「小山評定」。大河ドラマ等で描かれる「小山評定」は本当に行われたのか。その実像について高橋氏の見解を伺う。また「小山評定」における福島正則の存在についても資料を参考に言及する。
「小山評定」論争の経緯
乃至政彦 関ヶ原合戦について特に論争になっているのがいわゆる「会津征伐」。なぜ徳川家康は上杉景勝を倒そうとしたのかについて。(次回配信に収録予定)。
さらに「小山評定」。上方で石田三成らが挙兵したのを知って、徳川軍、いわゆる東軍が大々的な軍議を開いて「よし、西へ引き返そう」と決意して動いていく。大河ドラマでもよく扱われる山内一豊が手を挙げて「私の居城を差し上げますので、皆さん西へ」という流れがあって、福島正則は豊臣恩顧と言われているのに大声をあげて「西へ行くぞ」「西軍には絶対につかないぞ」と宣言したことで、雪崩を打つかのように皆が東軍に味方した。
概ねそのような流れで語られてきました。
高橋陽介 そうですね。おっしゃる通りドラマティックなストーリー語られてきました。
小山評定について、2012年に別府大学の白峰旬先生が小山評定は無かったと提起しました。それに対して静岡大学の本多隆成先生がドラマティックな展開はなかったかもしれないけど、7月25日の小山における談合・評定は資料によってあったということができると主張しました。
その後もこの「小山評定」の有無に関して10年間論争が続いています。いまだに決着がついていません。研究者の論争って、どっちかが「私は間違っていました」っていうまで終わりません。なのでまだしばらく続くんじゃないかなって思っています。
この論争についてほとんどの学者が7月25日に小山でなんらかの談合・評定があったのは間違いないとしています。2019年に京都の藤井讓治先生が本多先生の説が妥当だよねという論文を書かれました。またその2年前に織豊期研究会の水野伍貴さんも本多先生の説を支持しています。
そこに僕がちょっと首を突っ込んでしまいまして、2011年に本多先生の論文の書評をやったんですよ。
その書評の中で論点の1つであった「福島正則宛徳川家康書状」について触れました。書状の中で家康が福島正則に「人数を止めて小山に来て談合に参加しろ」と指示した日付を本多先生は7月24日としていた。つまり小山評定の前日です。
一方、白峰先生はその書状の日付が7月19日でした。だから小山評定よりも6日も前に家康は福島正則を呼んで、「人数を止めろ」じゃなくて、「上げろ」と言っている。
この2つの書状はどっちも写しなんですけど、徳川家康から福島正則への指示としてどちらが正しいのか。…続きは『歴史ノ部屋』で☑
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