乃至政彦『歴史ノ部屋』。今回は『天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった』を共著した高橋陽介氏と「関ヶ原合戦」をテーマに対談(全6回予定)。第1回は乃至政彦絶賛の高橋氏の近著『関ヶ原合戦の経緯』について。近年の研究でその様相が変化する「関ヶ原合戦」。高橋氏はなぜ今『関ヶ原合戦の経緯』を書いたのか、その理由を伺う。

『関ヶ原合戦の経緯』を書いた理由

乃至政彦(以下、乃至)今回は対談ということで、主に関ヶ原合戦について研究されている高橋陽介先生にお越しいただきました。高橋先生は静岡県の方で、私も静岡県に居た時に何度かお会いしました。

 東海古城研究会、織豊期研究会などに所属しておられて、積極的に論文を発表されたり、あるいは関ヶ原の独自の視点、新しい視点を発表して、テレビなどにもよく出演されてます。最近は講演などもよくされています。

 私はこの方の関ヶ原研究が非常にオリジナルで面白いと思って、一緒に本を書いたことがあるんですね。『天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった』ということで共著で出させていただきました。

 

 是非皆さんにお読みいただきたいです。文庫本も昨年出ました。関ヶ原の見方が変わる一冊だと思います。

 そして高橋先生は今年、一冊の単著を出されてます。『関ヶ原合戦の経緯』。これも是非皆さんに読んでいただきたい。

 高橋先生は多数の著書を出されていますが、その中で集大成かなと思うぐらい全てがまとまっている。なぜ関ヶ原合戦と呼ばれる合戦が起こったのか。その経緯と関ヶ原合戦の本戦でいったい何があったのか。というのをここまで当時の資料に近いものを選んで再現しようとした人は他にいないんじゃないかなと思うぐらい、本当に核心に迫っている一冊だと思います。

 今回の対談では、まず関ヶ原合戦の経緯ついて高橋陽介先生からいろいろお伺いしたいと思います。本日はよろしくお願いいたします。

高橋陽介(以下、高橋)よろしくお願いします。

乃至 まず、この『関ヶ原合戦の経緯』はこれまでにないぐらい非常に読みやすい。ダイジェスト的に、通史的にうまくまとめておられますけども、なぜ今回一冊にまとめようと思われたのでしょうか。

高橋 僕は慶長4年から慶長5年の豊臣政権というテーマで研究をしてる者なんですけど。以前乃至先生と一緒に書かせてもらって、その次に書いたのが、『秀吉は「家康政権」を遺言していた』。

 豊臣政権の末期、特に秀吉死後の豊臣政権ということを考える上で、従来秀吉は五大老・五奉行制度を言い残して家康を牽制したっていう前提で考えられてるわけです。

 ですけども資料を読むと秀吉って割と家康を信頼して丸投げしてるんじゃないのか。資料を文字通り読むと、秀吉は五大老・五奉行制度で家康を牽制したんじゃなくて、家康を秀頼の後継に任じて、家康に政権を担当させようとしていた。それで秀頼が成人した時には政権を返してくださいねとしか言ってないんですね。

 近年僕だけじゃなくいろんな研究者の方が次々の新しい説を出しています。関ヶ原合戦の様相についてもこの10年でものすごく変わってきてるんです。

 その中で研究者は合戦の様相っていうのは良い史料が残ってないってことで、経緯についてはあまり議論しようとしないんですよね。議論の中心になっているのは例えば直江状の真贋論争であるとか、あるいは小山評定があったのなかったのっていう論争とかになってくるわけです。

 歴史学者の方だと関ヶ原合戦が持つ意義とか、豊臣政権から徳川の世になる体制移行期という大きな視点で先に定義づくりしてしまうわけです。

 その定義づくりされたものを排除して、資料をそのまま読んでしまおうとしたときに、じゃあ関ヶ原合戦の経緯って我々が江戸時代の編纂物で論じた経緯とだいぶ違うんじゃないか。当時、関ヶ原合戦に参加した人の証言をそのまま読んだらこうなるんじゃないかというのを今回出させていただきました。…続きは『歴史ノ部屋』で☑

次回は「小山評定の最新議論を始めとする近年の関ヶ原研究の動向」を予定しています。

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