中世ヨーロッパ風の架空世界の経済活動に光を当て、狼の化身ホロと青年行商人ロレンスの旅を描いたライトノベル作品『狼と香辛料』シリーズ(著:支倉凍砂)。その奥深い世界観を、西洋史を専門とする研究者が読み解く!

仲田公輔
岡山大学 文学部/大学院社会文化科学学域 准教授。セント・アンドルーズ大学 歴史学部博士課程修了。PhD (History). 専門は、ビザンツ帝国史、とくにビザンツ帝国とコーカサスの関係史。1987年、静岡県川根町(現島田市)生まれ。

はじめは勉強のモチベーションとして……

 2005年に電撃小説大賞銀賞を受賞した支倉凍砂『狼と香辛料』が今年2024年、再びアニメ化されて話題を呼んでいる。

 私はこの作品には思い入れがある。私が持っている『狼と香辛料 I』は2008年刊行の第21版である。この頃はちょうど、私が大学3年次に専攻を西洋史に決め、西洋中世史の演習(ゼミ)に出始めた時期と一致する。西洋中世を題材にした作品などを読めば勉学のモチベーションが上がるのではないかと思って手に取ったのがこの作品だった。

 ラノベだし軽く読めるだろうと思って『狼と香辛料』ページをめくり始めのだが、ストーリー、特に各巻終盤の手に汗握る展開に夢中になり、結局最終巻まで追いかけることになった。

 私がここまで引き込まれた理由の一つが、随所に散りばめられた西洋中世をモチーフにした要素が没入感を高めてくれたからだ

『狼と香辛料』支倉凍砂(著)、文倉 十(イラスト)、KADOKAWA(電撃文庫)。2024年のTVアニメ化を記念した新カバー版の第1巻。

西洋中世をモチーフに作り込まれた舞台

 それもそのはず、『狼と香辛料』は西洋中世をモチーフにした架空の世界を舞台に展開する物語だが、その舞台の作り込みに並々ならぬ労力が注がれている。

 『狼と香辛料』は確かに「中世風ファンタジー」ではあるが、その表現はやや語弊がある。多くの中世風ファンタジーは、RPGなどによく用いられる魔法や異種族が登場する、テンプレート的世界観を舞台としている。そこは緩やかに「昔のヨーロッパ」風の世界観が描かれるが、実際の昔のヨーロッパがどうだったかはあまり重視されていない。

 対して『狼と香辛料』は、研究文献レベルを参考にして、中世ヨーロッパが「実際にどうであったか」を強く意識して描かれた作品である。

 物語のあらすじは、行商人クラフト・ロレンスが、普段は耳と尻尾以外は人間の女性の姿をしているが、その正体は数百年を生きる賢狼であるホロと出会い、各地で商売を繰り広げながら北にあるという彼女の故郷を目指し、その過程で絆を深めていくというものである。

 賢狼ホロをはじめとして、人の姿を取ることができる人知を超えた動物たちがいることを除いては、架空の世界という体裁を取りつつも、政治、経済、社会、文化の多くの側面が西洋中世の実態に寄せて描かれている。行商人である主人公は、剣や魔法ではなく、知恵と弁舌と人間関係を武器に旅を進めていく。

 中世モノを銘打ちつつも、いわゆる中世風ファンタジーの王道とは舞台も筋書きも異なるところが興味深い。

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『狼と香辛料』の「元ネタ」の本

 そもそも『狼と香辛料』というタイトルは、フランスの有名な中世史家ジャン・ファヴィエ(Jean Favier)による西洋経済史についての著作『金と香辛料(De l'or et des épices)』に由来している。

 同書はルネサンスやいわゆる「大航海時代」を控えた停滞期とされがちな西洋中世後期において、合理的かつ柔軟な考えを持つ商人たちの一部が、金や香辛料をはじめとする長距離交易の商品を扱いながら、信用や為替と言った商取引の仕組みを発展させつつ、「実業家」へと姿を変えていくさまを活写したものである。

『金と香辛料 中世における実業家の誕生』ジャン・ファヴィエ(著)、内田 日出海(訳)、春秋社。2022年刊行の新装版の表紙。

 『狼と香辛料』の主人公である行商人ロレンスや彼を取り巻く中世ヨーロッパ式の商取引の中には、同書に登場するものもある。

 冒頭で述べた、筆者が受講していたゼミの参考図書にも指定されていたほどの基本書である。2008年当時は日本語訳が絶版で入手が難しく、仕方なく英語版を手に取ったのを覚えている。

 なお、『狼と香辛料』の公式ガイドブックである電撃文庫編集部編『狼と香辛料ノ全テ』(アスキー・メディアワークス、2008年)には、『金と香辛料』を訳した内田日出海氏が寄稿している。

中世ドイツ風の舞台設定

 では『狼と香辛料』は中世後期のなかでも時代・地域的な設定は具体的にどこをモデルにしているのだろうか。

 支倉氏は『狼と香辛料ノ全テ』に採録されたインタビューにおいて、大まかな舞台設定としてはドイツ中世を意識しているが、現実に忠実すぎると別の問題が生じると述べており、あえてずらしている部分もあることを示唆している。

 とはいえ、支倉氏は舞台設定を作り込むために、多くの参考文献に当たっていることがうかがえる。同氏の2006年のブログ記事(2023年7月29日閲覧)には、30冊ほどの書籍が挙げられている。

 筆者も『狼と香辛料』を初めて読んだときにこのブログの記事を見つけたのを覚えている。当時授業で聞いた「阿部謹也」の名前くらいは知っていたが(名前しか知らなかったあたり、本当に不勉強だった)、西洋史を専攻しながらもここに挙げられている書籍のほとんどを読んだことがなかったために恥じ入った記憶がある。

 ドイツ中世風の舞台設定に大きな影響を与えていそうなのが、山内進『北の十字軍』(講談社、1997年)である。先述のインタビューによれば、支倉氏は十字軍をモチーフにした小説を書こうとしており、そこで本書と出会い、さらにその参考文献として挙げられていた『金と香辛料』を読むに至ったという(ただし『北の十字軍』には明確に『金と香辛料』について言及されている部分は存在しないように思える)

『北の十字軍 「ヨーロッパ」の北方拡大』山内 進(著)、講談社(講談社学術文庫)。

 『狼と香辛料』のどういった部分が、そうした現実の西洋中世を意識して描かれているのだろうか。それがどのように物語を面白くしているのだろうか。そしてそれを入口に、実際の西洋中世の様相についてももう少し詳しく紹介してみようというのが、今回の企画である。

 今回は2024年版のアニメで扱われることが予測される1~4巻の内容を中心に触れることにしたい。

参考文献

  • 山内進『北の十字軍―「ヨーロッパ」の北方拡大』(講談社学術文庫、2011年)。
  • ジャン・ファヴィエ『金と香辛料』内田日出海訳(春秋社、1997年)。
  • 『狼と香辛料ノ全テ』電撃文庫編集部編(アスキー・メディアワークス、2008年)。

【続き】異色の経済ファンタジー『狼と香辛料』。モデルとなった中世の商人ネットワークとは?

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