「歴史ノ部屋」でしか読めない、戦国にまつわるウラ話。今回は、前々回、前回に引き続き「信長の野望」シリーズより、「信長包囲網」について。

 ゲームシナリオで常連の「信長包囲網」は研究が進むにつれてその実像が従来説と異なることが明らかになってきた。もともとは信長包囲網ではなく、幕府包囲網だったのだ。それが足利義昭の裏切りにより、信長包囲網へと変じていく。今回は史実の信長包囲網について説明します。

織田信長像

史実の信長包囲網①[近衛前久の謀略]

 史実の「信長包囲網」について補足しておこう。すべての発端は、義昭や信玄ではなく、ある公家にあった。

 その公家とは、元関白・近衛前久(このえさきひさ)である。

 1568年10月、京都に入った足利義昭が、天皇から第15代征夷大将軍に任命された。兵力のない義昭の上洛を成功に導いたのは美濃・尾張を領する信長であった。

 すると義昭は過去に自分の実兄・足利義輝(よしてる)(13代将軍)が暗殺された責任を、前久にあると糾弾しはじめた。そうして前久から関白の座を取りあげて京都から追放し、その所領も没収した。

 義輝と親友だった前久にすれば理不尽な話である。

 しかも義昭は、義輝殺害の張本人である三好義継(みよしよしつぐ)の妹と縁談を結んでおり、前久はこんな将軍では到底つきあっていられないと思っただろう。

 1569年11月、摂津の大坂本願寺に逃れた前久は、ここから巻き返しを企む。なんと、近江の六角承禎・浅井長政・越前の朝倉義景・四国の三好三人衆、そして大坂本願寺を束ねて、幕府を転覆させてやろうと動き始めたのだ。近日中には前久自らも出馬することを、薩摩の島津貴久(しまずたかひさ)に伝えている。

 すなわち京都を取り囲む「幕府包囲網」である。この計画はすぐに実行された。

 姉川合戦があって2ヶ月後の1570年8月、信長が朝倉・浅井連合に長期戦を強いられているのに乗じて、三好三人衆が四国から摂津天王寺に移り、幕府軍と交戦しはじめた。その数、三好三人衆が3万、幕府軍は6万と伝わっている。幕府軍の主力は織田信長の軍勢である。ここで大軍同士の激戦が展開された。

 当時の僧侶の日記に「(この戦いで)信長衆が数多討死にした」と書かれているように、「幕府包囲網」は「信長包囲網」とほぼ同じである。

 しかも翌月、近江で戦われた「志賀の陣」では、近江の比叡山が連合軍に積極支援した。その後、信長は朝廷に仲介を依頼して、12月に停戦協定を結ぶことに成功して、双方とも雪の中、撤兵することになった。

 この戦いの構図が翌年以降、形を変えて引き継がれており、信長が比叡山を焼き討ちするなどして、より激化していくことになる。

史実の信長包囲網②[武田信玄の謀略]

 しかもこの状況を利用できると思う大名がいた。...